折々のトピックス



日本建築学会北陸大会の機会に,金沢市内を歩いてきました(2019.9.11.編集).
その2

 日本建築学会北陸大会が16年ぶりに金沢(会場は野々市の金沢工大)で開催されることになり,学会発表を準備して参加しました.そしてその前後には,金沢城,兼六園はじめ金沢市内の気になっていた地域を,心ゆくまで散策してきました.
 [その2]に掲載させて頂いた尾山神社境内の『お松の方とシャクヤク』について補足させていただきますと,江戸城で淋しい日々を過ごしたお松の方はシャクヤクを愛でることを慰みとされていたそうで,お松の方が金沢に持ち帰ったシャクヤクは金沢大学薬用植物園の薬用シャクヤクに引き継がれているとのことです.

11年前に水難事故があった神戸市灘区の都賀川を歩いてきました(2019.7.20.編集).
その2

 2008年の都賀川水難事故は,100年に一度の大雨に起因した豪雨災害であると言われてきました.その後,都賀川には電光掲示板,回転灯,緊急避難用梯,門扉の設置などの対策が取られはしましたが,親水公園としての機能は以前のままに残されています.川べりでは,事故以前と変わらずイベントが開催され,休日には多くの人が散歩をしたりバーベキューをしたりして楽しんでいます.都賀川は本当に安全な川になったのでしょうか?

谷川岳~水上高原~宝川温泉を歩いてきました(2019.7.18.編集).

 大学同期の記念行事(少し早目の喜寿の祝い)が水上高原で開催されることになり,ついでに谷川岳と宝川温泉にも足を延ばしてきました.谷川岳では尾根歩きはせずに,一ノ倉岳と一ノ倉沢を一望できる一ノ倉沢出合からの眺望を楽しみたいと思い,殆ど起伏のないコースを選びました.
 今回は新幹線は一切利用せず在来線を乗り継いで土合駅まで行きましたが,車中で埼玉の中学生の一群と一緒になり,最後の一ノ倉沢出合まで同じコースを歩くことになりました.土合駅の下りホームはとんでもない地下駅で,地上に出るまで標高差約70メートル(462段の階段)のトンネル内登山を初体験しました.

秋の日本建築学会北陸大会に向けて発表資料を準備しているところです(2019.6.29.編集).
その2

 昨日の6月28日は福井地震から71年目の記念日に当たります.今年の日本建築学会年次大会は金沢で開催されますので,今まで温めておいた福井地震に関する調査結果『福井地震(1948年)に遭遇した大和百貨店の従業員はいかに行動したか?』を発表しようと考えています.この調査は大和デパート金沢本店のお力添えがあって初めて実現したものですので,金沢での研究発表に意義を感じています.

新潟地震(1964)の時の津波資料を収集してみました(2019.6.24.編集).
その2 地元紙新潟日報の津波情報
その3 地震研究所の津波調査
その4
その5 日本建築学会調査報告書
その6 新潟県による新潟地震の記録
その7
その8
その9
その10 土木学会調査報告書
その11
その12 2つの地震に関係する地図

 今回の新潟・山形県境の地震について,津波に対する情報伝達がうまく機能したのかどうか,また,それを受けた避難行動が適切に行われたのかどうか,これから調査結果に基づく検証が必要になるものと思われます.参考になるかどうかは判りませんが,比較のために新潟地震(1964)の時の津波資料を収集してみました.今回の地震時の避難行動に,55年前の津波被害の経験がどの程度影響しているのか,甚だ興味深いことではないでしょうか.
 本サイト「備忘録ないしは切り抜き帳」の中にも関連記事がありますのでご参照ください.

彦根城の中を散策してきました(2019.6.4.編集).

 先日,関西方面へのドライブの帰路,彦根城に立ち寄りました.平成の大改修後の美しい姿を一度も見ていなかったので,以前から楽しみにしておりました.ところが,天守には足場が組まれていて,美しいしっくい壁を堪能することは叶いませんでした.伺いましたら,昨年の台風21号によって,しっくい壁の剥離や倒木などの被害が発生して,修復工事に取り掛かったところだそうです.確かに昨年の台風21号では甚大な被害が発生していたことを思い出し,大変申し訳ない気持ちになりました.

兵庫県南部地震(1995)で大規模地すべりを起こした西宮市仁川百合野町を歩いてきました(2019.5.28.編集).
その2

 つい先日,釜井俊孝氏の著書『宅地崩壊 なぜ都市で土砂災害が起こるのか(NHK出版新書,2019)』を読ませて頂き,その中の地すべり災害の写真に触発されて,現場を一度訪ねてみたいと思いました.すぐ近くの山陽新幹線高架橋の被災現場は兵庫県南部地震の直後に訪問していましたが,その時はその足で神戸方面に向かったために,この地すべり現場を訪ねることはできませんでした.今回,24年後の訪問となりました.

以前(2009年)に建築歴史調査の一環でシリアを訪問した時の写真をもう一度整理してみました(2019.1.17.編集).
その2
その3
その4
その5

 以前にもこのサイトで,東工大篠野研究室が行っておられた歴史遺産としての教会建築の調査に便乗して,東トルコ・アルメニア・シリアを訪問させて頂いたことに触れさせて頂きました.その後,シリアでは内戦が激化して,大変気の毒な状態になってしまいました.
 最近になって,仙台で開催された日本建築学会大会の中で,フォトジャーナリスト・安田菜津紀氏のシリアについての講演を拝聴する機会があり,また最近,小山茂樹著『シリアとレバノン(東洋経済新報社,1996)』に刺激を受けたこともありまして,2009年当時の写真をもう一度整理してみました.

年明けに南房総の鋸山-館山-安房白浜を歩いてきました(2019.1.11.編集).

 南房総は地質の宝庫.それに名刹が加われば云うことはありません.歩いてみて判ったことですが,この地の重要なキーワードは行基菩薩と関東大震災でした.

西日本豪雨災害の最大の被災地である倉敷市真備地区を訪問してきました(2018.12.10.編集).
その2
その3
その4(追記:10年前の神戸市都賀川水難事故について)

 7月の西日本豪雨被害で最も注目されたのは倉敷市真備町の水深5mにも及ぶ大水害でした.被災地ではいったい何が起こったのか.自分自身の目で確かめたくて現地を訪問しました.最近は新聞やテレビなどの報道機関のほかネット情報も容易に入手できますので「何もわざわざ現地に行かなくても」と思いがちになります.地震災害ですと強震データも比較的簡単に入手できますし,被害状況もグーグルマップを用いて被災前の状況と比較することも可能です.
 しかし本当にこれで良いのかと,時々自分自身を戒めているのですが,8年前の停年退職の時に密かに心に誓いましたのは,今後とも体が許す限り,地べたに密着した現地調査を心がけると云うことでした.今回,何とかそれが実行できて安堵しているのですが,今後の防災対策のお役に立たなければ意味がありませんので,本当に頑張らなければならないのはこれからなのですが.

活断層見学ツアーと称して丹那断層/神縄断層/国府津-松田断層を巡ってきました(2018.11.20.編集).
その2
その3
その4
その5
その6
その7

 日本免震構造協会入力地震動小委員会では,調査研究活動の一環としてのみならず親睦の意味も込めて,各地に残されている地震遺跡(活断層や地震被害の遺跡)を年に1回のペースで探訪し,フィールドワークによる研鑽を積む努力を重ねてきました.ここに掲載させて頂いた2004年の『活断層見学会 丹那断層/神縄断層/国府津-松田断層』はその第1回目の試みで,その後も千葉県の『安房鴨川断層帯+鋸山』, 栃木県の『今市地震の痕跡/大谷石採石場跡と崩落現場跡/関谷断層と集落・街道の移転跡』,岐阜県の『濃尾地震の根尾谷・水鳥断層』,『2008年岩手/宮城内陸地震被害状況の視察』,『2011年東日本大震災の津波被災地の視察』などを実施してきました.
 最初の試みからすでに10数年が経過, 委員会のメンバーも何度か入れ替わったりしているので,今回, 上記の入力地震動小委員会OB会として,最初の『丹那断層/神縄断層/国府津-松田断層』に立ち戻ることにしました.前回の視察からずいぶん年月が経過しているため, 再訪者にとっても新たな疑問や発見があって,今回の視察は決して無駄ではなかったのではないかと思っています.
 今回の視察の中で,最も注目すべきは1930年北伊豆地震に伴う丹那断層ですが,丹那トンネルの掘削中に地震に遭遇し,トンネル内に閉じ込められたり, 断層鏡面を目撃した当時の人々に思いを馳せることができたのも, 現地ならではの経験だったからではないでしょうか.断層の発掘調査からは, 1回につき約2mの横ずれが8000年間に9回発生しているそうで, 地震の再来周期は700~1000年になります.一方, 地形調査からは, 横ずれの累積変位は1kmで辻褄が合う(東西の地形が繋がる)とのことですから,1000年に1度, 2mの横ずれを起こすとして, その累積変位が1kmに達するには500回の地震が必要で, そのための時間は50万年を要すると云う,何とも雄大な話になります.

先日,本郷・湯島界隈を歩いていて,魅力的な著作に出会いました(2018.11.11.編集).

 たまたま足を止めたのは文京区湯島2丁目の大谷大学真宗総合研究所東京分室というところでした.道路に面した掲示板に掲載されていた『イスタンブル・聖ソフィアでの祈り(林佳世子:anjali,No.35,June 2018)』なる著述に惹かれ,冊子を購入して読ませていただきました.気になりましたのは,イスタンブールの名所であるアヤソフィア寺院の数奇な運命ということもありましたが,それ以上に冒頭の,アルメニア教会で礼拝するイスラム教信者の老婆が発した「神は同じだから」との言葉に著者が驚いた体験や,「イスラム教徒にとって,キリスト教の信仰の場は不浄でも不吉でもない」,「イスタンブルの人口の半数がキリスト教徒である状況は20世紀まで変わらなかった」と言った記述の内容でした.立ち読みでは大変申し訳ないので,じっくり読ませて頂こうと思った次第です.

9月6日に発生した北海道胆振東部地震についての資料を整理してみました(2018.9.14.編集).
その2(2018.10.7.追記)

 仙台市で開催された日本建築学会の年次大会に参加していた最中に,台風21号が関西地域を襲い,続いて北海道の地震が発生すると云う大事件がありました.まだ何も調査した訳ではありませんが,取り敢えず北海道の地震災害について,何が問題なのかを知るために,資料の収集・整理を始めました.
 関連資料が東日本大震災以後の備忘録ないしは切り抜き帳(その88,2018.8.31.~)の中にもあります.

西日本新聞の連載記事『浦上の姉さん』を転載させて頂きました(2018.8.5.編集).
その2
その3
その4(2018.8.12.追記)
その5(2018.8.26.追記)

 もうすぐ広島と長崎の原爆記念日がやって来ます.広島原爆については,つい最近にも石井光太著『原爆 広島を復興させた人びと』が刊行されたりして,比較的資料も豊富ですが,長崎原爆についてはまだまだ不明の点が多く残されているように思われます.
 先日,福岡に帰郷した折に,地元紙西日本新聞に連載されていたキリシタン迫害の中で生きた岩永マキの生涯『浦上の姉さん』の存在を知りました.長崎原爆以前の話ですが,昨年の8月9日に本サイトの備忘録で紹介させて頂いた『原爆と沈黙~長崎浦上地区の受難~(8月12日 Eテレ)』へと繋がる話であることは間違いありません.連載記事を書いた西日本新聞文化部の藤原賢吾氏は義理の息子に当たりますので,私事ながら大変誇りに思っているところですが,同氏によりますと,取材に費やした苦労は並大抵ではなかったようです.
 関連資料が東日本大震災以後の備忘録ないしは切り抜き帳(その86,2018.8.9.)の中にもあります.

熊本城が今どうなっているかを確認するため4度目の熊本訪問を実行してきました(2018.7.18.編集).

 修復工事が進行中の熊本城が今現在どのような状況にあるのか.それを確認するためには時々現地を訪問して,自分の目で確認するしかありません.幸いリタイア組には充分な時間があってそれが可能なのですが,大敵は想定外の熱中症でした.

2018年6月18日に発生した大阪府北部の地震(M6.1, 最大震度6弱)の被災地を歩いてきました(2018.7.18.編集).
その2

 大阪北部地震で被災した京都府大山崎地区,大阪府高槻市と茨木市の一部地域を歩いてみました.総じて,今回の大阪北部地震の被害は,短周期地震動によるものであったことが確認できました.住家における屋根の主として棟瓦の被害,ブロック塀の倒壊,壁の剥離,灯篭や二宮尊徳像の落下も含めて,それらの全てが短周期地震動の仕業であることに間違いはないものと理解しました.
 本サイト「東日本大震災以後の備忘録ないしは切り抜き帳」に関連記事がありますのでご参照ください.

西日本豪雨災害に関する資料を2つの地域に絞って集めてみました(2018.7.12.編集).
その2

 毎日刻々と報道されている西日本豪雨災害の中から,岡山県倉敷市真備町と広島県安芸郡府中町と云う2つの地域の,互いに性格の異なる豪雨災害に注目してみました.未だ現場を見ていないので,結論を下すことは早計でしょうが,それでも気になった幾つかの点を書き留めておきたいと思います.
 岡山県倉敷市真備町の広域水害について:最初に注目したのは,報道写真の水没した住宅群が平屋建てなのか二階建てなのかと云った些細な点でしたが,グーグルマップで現地を探し当て,それらが二階建てのモダンな住宅街と判明した段階で,新たなショックを受けました.すでに倉敷市によって洪水ハザードマップが準備されていたのは大変良いことですが,今回の被害分布がすでに公表されているハザードマップと殆ど一致していたことが強く印象に残りました.もしかすると,東京下町の荒川・隅田川周辺で想定されている洪水ハザードマップも,相当な現実味を帯びており,軽く見てはならないのではないでしょうか.
 広島県安芸郡府中町に突然襲来した土石流について:府中みくまり病院による防犯カメラの映像が何よりも印象的でした.災害の結果だけでなく,災害の瞬間の映像を目にする機会が増えたことは,災害の原因究明にとって大いに有益であろうと思われます.それは,地震動災害の理解のために地震記象が有用であるのと同じことかも知れません.
 最後に,今回の豪雨災害の犠牲者に心からご冥福をお祈りし,被災された方々には,一日も早く以前の生活に戻れますよう,お祈り申し上げております.
 本サイト「東日本大震災以後の備忘録ないしは切り抜き帳」に関連記事がありますのでご参照ください.

今日は福井地震から70年目の記念日.福井地震に関するこれまでの調査資料を集めてみました(2018.6.28.編集).
その2
その3
その4

 6月28日は70年前に福井地震があった日です.その当時のことなどもちろん記憶にありませんが,地震工学の大先輩の先生方から幾度となく当時の話を聞かされ,それらの話を理解するために,地震調査報告書は勿論のこと,当時の地元紙も丹念に調べ,福井の県立・市立図書館へ何度も通い,何人かの方々に貴重な体験談を伺ったことを思い出します.お蔭で福井地震には相当詳しくなったと自負していたのですが,定年退職の間際になって,福井地震で被災した大和デパートについて,とんでもない間違いを犯していたことに気が付きました.そして地震から60年も経ってから,手遅れとも思える現地の聞き取り調査を密かに実行しました.その調査結果は辛うじて退職時の最終講義に間に合いました.
 本サイト「東日本大震災以後の備忘録ないしは切り抜き帳」に関連記事がありますのでご参照ください.

2018年6月18日に発生した大阪府北部の地震(M6.1, 最大震度6弱)に関する資料を集めてみました(2018.6.21.編集).
その2

 6月18日の朝8時ごろ,大阪府北部で最大震度6弱の地震が発生しました.地震の規模はM6.1, 震源深さは約13kmと推定されているそうですが,詳しいことはまだ判っていません.当日の東京新聞夕刊には『あまり発生ない場所』と題する気象庁のコメントが掲載されていましたが, 周囲を断層帯で囲まれた地域で発生したことから大変気になっております.地震規模の割に被害が大きい理由の第一は,周囲を硬い岩盤で取り囲まれた大阪平野(本当は大阪盆地というべきでしょうが)の地形地質にあるものと考えられます.すなわち,大阪盆地端部の,なおかつ淀川沿いの低地に位置する高槻・茨木・枚方で地震動が強く現れたのは,被災者の方々には本当に気の毒ですが,宿命としか言いようがありません.1995年の兵庫県南部地震の後,上町断層の存在なども注目され,大阪地域の地震対策を強化しようとの動きがあっただけに,地元の行政におかれては,今回の地震災害を深刻に受け止めて戴きたいものです.
 本サイト「東日本大震災以後の備忘録ないしは切り抜き帳」に関連記事がありますのでご参照ください.

東京新聞の『<東京の城景> 八王子城 戦国時代の幕引き』に惹かれて(2018.5.9.編集).

 先日5月5日付けの東京新聞に掲載されていた『<東京の城景> 八王子城 戦国時代の幕引き』を興味深く拝見しました.昨年の秋に偶々,高校の同期会で当地を訪ねたばかりでしたので,新聞記事を記憶に留めておきたいと思い,ここに転載させて頂きました.

昭和の森での同期会ゴルフでお世話になっている昭島市の気になる資料を集めてみました(2018.5.3.編集).
その2(玉川上水についての補足 2018.5.28.追記)
その3(アキシマクジラについての補足 2018.10.26.追記)

 昭島市の昭和の森ゴルフコースで毎年,春と秋に開催される高校同期のゴルフ会に参加させて頂いているのですが,早朝に到着して近くの玉川上水を散策している時に,偶然にもマンホールに描かれているクジラを見て,大変不思議に思いました.なぜ内陸の昭島にクジラなのか.「昭島とクジラ」をネット検索したことから思いもしない結果に辿り着きました.
 もう一つ,昭島について以前から気になっているのは米軍横田基地のことです.つい最近,横田基地にオスプレイが配備されることになって,マスメディアにも注目されていました.基地の周辺は保育園や幼稚園,小・中学校,高校・大学などが点在する住宅密集地で,沖縄の普天間飛行場よりもさらに高密度であることに問題はないのでしょうか.

憲政記念公園で出会った『楷の木』について調べてみました(2018.4.29.編集, 林試の森公園 2018.5.1.追記).
その2(湯島聖堂 2018.5.22.追記)
その3(小石川植物園 2018.5.27.追記)

 4月の初めごろ,国会議事堂前の憲政記念公園で八重桜を鑑賞していましたら『楷の木』という名の不思議な樹木に出会いました.ネット検索してみますと,中国由来のウルシ科の樹木と判りましたが,雌雄異株のはずが,どう見ても2種類の花が咲いているようなのが気になっておりました.
 最近になって,わが国で最初に『楷の木』を育成した東京都立林試の森公園を訪問し,原木を見せて頂きました.職員の方にお伺いしたところ,最近は花を付けたのを見たことがなく,日当たりが悪い所為ではないかとのことでした.しかし,樹木の説明板には「赤い粟粒は蕾で,それが開いて淡黄色の花になる」とあって,2種類の花の謎はようやく解けたように思われました.
 その後,もう一度詳しいネット検索を行うことによって,すでに見ていた『楷の木』は雄株であったこと,雌株は小石川植物園や湯島聖堂で見られることを知りました.いつか雌花を目にしてみたいものです.

目黒駅から田町駅まで約1万歩を歩いてみました(2018.3.23.編集).
その2

 3月22日に建築同期の勉強会が田町駅前で予定されていましたので,その途中の自然教育園に立ち寄るつもりでしたが,あいにく祭日の翌日と云うことで閉館でしたので,思い切って田町まで歩くことにしました.
 前半の目黒通りでは,まず東大医科学研究所に立ち寄り,白金台の高級マンション街を横目に,八芳園敷地内の古地老稲荷神社とシェラトン都ホテルを経由して清正公前に出ました.後半の桜田通りは魚籃坂下あたりからお寺さんばかりで,そのお蔭もあってツバキをはじめとする沢山の植物に恵まれました.日頃あまり馴染みのない地域でしたが,約2時間かけて植物散策を楽しむことができました.

日本建築学会で開催された『メキシコ中部の地震災害調査団』速報会に参加してきました(2018.2.18.編集).
その2(2018.2.21.追記)

 2月16日に日本建築学会で開催された『メキシコ中部の地震災害調査団』速報会に参加させて頂きました.調査団は斉藤大樹氏(豊橋技術科学大学)を団長とし,日本建築学会災害委員会と日本地震工学会地震災害対応委員会の若手研究者4名で構成される小規模なもので,調査対象は昨年9月19日に発生したメキシコ中部の地震におけるメキシコ市の建築被害とのことでした.
 この地震は偶然にも1985年のメキシコ地震と同じ日に発生していて,メキシコ市ではこの32年前の地震災害の追悼行事の最中での被災だったようです.速報会の会場には,この32年前の地震調査に従事した懐かしい顔ぶれも多く見られました.若手研究者を暖かく見守りつつも,会場に大変厳しい質問が飛び交っていたのは,調査報告が建物被害の細部ばかりに及んで震災の全体像が一向に見えない苛立ちからでしょうが,32年前の我々の調査も先輩方から見たら同じであったのかも知れません.

冬の植物園をいくつか散策してみました(もえぎ野公園,泉の森,自然教育園 2018.2.5.編集).
その2(小石川植物園 2018.2.5.編集)
その3(野毛山公園 2018.2.11.編集)
その4(井の頭公園 2018.2.18.編集)
その5(港の見える丘公園,山下公園 2018.2.20.編集)
その6(もえぎ野公園 2018.3.4.編集)

 何かの用事で外出する時に,ついでにその近くの植物園に立ち寄るということを,最近になって実行しています.
 冬の植物園と云うのは何だか物悲しくて,これまで殆ど訪ねたことはありませんでしたが,実際に散策してみますと,これもなかなか捨てたものではないと考えを改めるようになってきました.
 寒い冬の,お化粧を落としたような樹木の姿に,意匠を施す前の建築構造を連想したり,赤い木の実や草の実に自然と安らぎを感じたりすることにも,なんだか不思議な気がしています.

神田和泉町・佐久間町界隈を歩いてきました(2017.11.4.編集).
その2(2017.11.4.編集, 11.17.追記)

 「神田和泉町・佐久間町はなぜ焼け残ることができたのか?」下に掲げさせて頂いた『震災豫防調査會報告第百号(戊)関東大地震調査報文火災:東京市火災動態地図』を見れば,誰しもが抱く疑問ではないでしょうか.この地図で,神田から両国にかけての地域を切り取ったのには訳があります.隅田川の対岸には2万坪の広大な敷地[被服廠跡]があって,そこに家財道具ごと避難して安堵していた4万人もの人々が,やがて襲ってきた広域火災に伴う大旋風の犠牲になると云う,もう一方の大事件があったことを忘れてはならないと考えるからです.
 関東大震災とりわけ大震火災について,筆者にとりましては『震災豫防調査會報告第百号』と共に,吉村昭氏の『関東大震災』の存在が大きかったのですが,以前(1986年)に『震災が地域社会に及ぼす影響』という論説を「建築防災(建防協,機関誌)」に連載させて頂いたことで,考察を終えたつもりになっていました.
 つい最近になって,竜ケ崎地震や関東地震に興味を抱かれた研究仲間のN氏から,関東大震災当時に機能していた和泉町ポンプ所が現在も健在であること,司馬遼太郎氏の著書の中にも神田和泉町・佐久間町の住民が一丸となった消火・防火活動についての記述があることを教えて戴きました.そこで改めて神田和泉町・佐久間町を訪ねてみることにしました.

九州北部水害の被災地を訪ねてきました(2017.9.17.編集).
その2

 九州北部水害が発生した時は折悪しく入院中で,詳しいことが判らずに悶々として過ごしていました.広島で開催された日本建築学会年次大会の後,災害から2カ月後の9月5日にようやく現地調査を行うことができました.限られた時間の中で体調も充分ではなかったこともあってレンタカーに頼ることにしました.福岡空港で予約しておいた軽自動車は6時間で約4000円とのことで,リタイア組にとって願ってもないことでした.時間の制約もあって,調査は殆ど松末地区を含む赤谷川流域に絞ることにしました.現地に入ってみると杷木星丸から先は立ち入り禁止になっていましたが,地元ナンバーの軽自動車が幸いしてか,そのまま先に進むことができました.
 資料によりますと,降水量は3時間で400mm,24時間で1,000mmと云う凄まじいものでしたが,さらなる問題は地形・地質環境と地盤条件,そして地域の産業形態にあったのではないかと思われました.産総研の地質図によりますと,この地域は中生代初期の変成岩や白亜紀の深成岩が露出しているそうで,これが風化して表面が真砂と呼ばれる砂質土となり,豪雨によって浸食→運搬→堆積される過程によって,今回の災害はほぼ説明できるように思われました.
 さらに災害を大きくしたのは周囲の山腹を覆いつくす戦後のスギの植林事業でした.スギ林が侵食され,流木となって被害を大きくし,さらに人命救助や応急復旧の大きな妨げになったことは,今回の豪雨災害の大きな特徴となっているように思われました.

日本建築学会年次大会の機会に広島と岩国を訪ねてきました(2017.9.9.編集,9.15.追記).
その2

 2017年8月31日から9月3日までの期間,広島工業大学で開催された日本建築学会年次大会に参加し,その合間を利用して周辺の気になる所を訪ねてきました.広島の宿は取れず,岩国が活動の拠点となりましたが,初体験の岩国もまた魅力に溢れていました.

念願の津和野を歩いてきました(2017.5.6.編集).
その2

 建築仲間K氏の作品を見せて頂く目的で津和野を訪れる機会がありました.K氏は我々の野草の会の師匠でもありますので,必然的に建築作品と野草を愛でる旅となりました.憧れの津和野は期待にたがわず,街並みと歴史と自然とが見事に調和した町でした.

熊本地震から1年後の熊本を訪ねてきました(2017.5.1.編集).
その2
その3

 今回の熊本訪問は『熊本地震1周年報告会』への参加と併せて,熊本地震から1年後の復興状況を見せて頂くのが目的でした.唯一気になっていたのは,まだ西原村の被災状況を見せて頂く機会を持てなかったことで,そのため今回は真っ先に西原村へ向かいました.地元の方々のご親切にも助けられて,何とか目的を達することができたのはありがたいことでした.もう一つの心残りは水前寺公園の被災状況を確認できていなかったことでしたが,この点についても既に被害の痕跡は残ってはいなかったものの,現地を見せて頂くことによって被災状況を理解することができました.
 『熊本地震1周年報告会』の講演内容は既に公開されている防災学術連携体のホームページで入手できますが,特に印象に残ったのは熊本県と熊本市による地元行政の立場からの報告でした.発災直後の被害状況を把握することの困難さや被災者の救出活動,住民の避難生活への配慮,さらには仮設住宅建設へと課題が山積する中で,兵庫県南部地震以降の種々の災害を経験した地方自治体との協力関係が上手く機能しつつある点は高く評価されてよいと思われました.また,熊本城の復興は今回の震災復興のシンボル的存在でもあり,担当者による復興計画の提示は被災地に希望を与える内容であったと好感が持てました.
 報告会の翌日に実施された『熊本復興視察ツアー』では,益城町の地震断層視察の他は,全て復興に着手し始めた典型的な現場を解説付きで見せて頂きました.とりわけ最後に訪れた阿蘇大橋の崩壊現場は,これまで橋の反対側からしか見ていませんでしたので本当に圧倒されました.

京都嵯峨野を散策する機会に恵まれました(2017.4.29.編集).
その2

 2016年の新書大賞第1位に輝いた『京都ぎらい』(井上章一/朝日新聞出版)を読ませて頂き「なるほど」と感じ入っておりましたが,先日,ご当地嵯峨野を訪れる機会に恵まれました.それは偶々,大学卒業50周年記念同期会が京都で開催されたからですが,同行の仲間たちとこの『京都ぎらいの旅(嵯峨野散策)』を存分に楽しむことができました.

野草散策の途上,偶然にも45年前の『がけ崩れ実験事故現場』に遭遇しました(2017.3.9.再編集).

 大学同期の野草の会で川崎市向ヶ丘遊園の中を散策していて,偶然にも下の写真の慰霊碑に出逢いました.この事故が発生したのは昭和46(1971)年11月のことで,正にその時,大学院を修了しゼネコンの技術研究所に所属して3年目,私は1968年十勝沖地震で長周期地震動が観測された八戸市で,その地震動解明のための『地下深部地盤探査(人工地震探査)』に参加していました.指導者は東大地震研や北大の地物・地震学の教授陣で,実験を主宰していたのが科学技術庁国立防災科学センターでした.同じ科技庁の実験で人身事故が発生したため,我々の調査にも直ちに停止命令が下り,調査が安全かどうかを本省の担当官が確認に来ました.しばらくして調査は無事に再開されました.

世田谷区役所の周辺を歩いてきました(2017.3.6.編集).
その2
追録

 都内へ出たついでに,世田谷区役所の周辺をゆっくり歩いてみました.目的と云えば,前川國男氏設計の世田谷区役所をめぐる保存か解体かの議論がありましたので,それを一度見ておきたいとの気持ちがありました.突然の訪問だったこともあって,区民会館のオーディトリアムを見せて戴くことは叶いませんでした.事前に見学届を提出する必要があるそうで,正にお役所仕事の応対でした.
 今,話題の『森友学園』ではありませんが,『松下村塾』の吉田松陰を祀った松陰神社も初体験でした.世田谷区で作成している「せたがや文化マップ」のお蔭で,世田谷城跡や豪徳寺についても学ぶことができました.豪徳寺の境内には若い女性客(?)が目につきましたが,どうも『招き猫』に招かれたようでした.
 ところで,世田谷区について本当に勉強したいのは「地震火災に対する脆弱性」の問題についてでした.実際に歩いてみると一方通行だらけで(車でなかったのが幸いでしたが),『世田谷ダンジョン(迷宮? 迷路?)』と云う言葉の存在を初めて知りました.

1月末から2月初旬にかけて沖縄を訪ねてきました(2017.2.11.編集).
その2
その3
その4
追録1
追録2

 普天間飛行場の辺野古移設の問題や太平洋戦争末期の沖縄戦のこと,ひいてはそれ以前の琉球王朝時代からの歴史を知りたくて,沖縄を訪問してきました.筆者にとっては初めての沖縄体験でした.
 やはり現地に行かないと判らないもので,普天間飛行場の辺野古移設の問題についてはとんでもない思い違いをしていたことが大変良く理解できました.それは単なる代替地への移し替えではなく,空港と軍港とを兼ね備えた本格的かつ大規模な軍事施設の新設でした.
 沖縄訪問の前に石原昌家著『沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕-国内が戦場になったとき(集英社新書)』を読んでから出かけたのですが,それでも沖縄戦の最期の壕(ガマと呼ばれる琉球石灰岩の洞窟)の中での悲惨な状況は想像を絶するものでした.有名な『ひめゆりの塔』の話はその一部ですが,同じような壕は沖縄本島南部地域に無数に存在していました.
 独特の文化を育んだ琉球王朝の時代から島津藩による琉球支配,明治の琉球処分を経て,太平洋戦争では本土防衛のための防波堤(『捨て石』とも呼ばれています)として悲惨な最期を遂げ,今またわが国全体の74%もの面積の米軍基地を背負わされている沖縄県とはいったい何なのかと思わざるを得ません.これ以上の沖縄差別が続くのであれば『日本からの沖縄独立』も究極の選択としてあり得るのかも知れないと,考えさせられることの多い沖縄訪問でした.
 東日本大震災以後の備忘録ないしは切り抜き帳(その46, 2/7, 2/14)に関連の記事があります.

熊本地震その後-熊本城の歴史と被害に注目して(2016.8.18.編集).

 熊本城の地震災害は石垣の崩壊が顕著で,それに比べて城郭自体の被害は二次的なものではなかったかと考えられます.一本石垣が注目された飯田丸五階櫓には特にそれが象徴的に現れていて,天守閣の被害はほとんど瓦屋根の崩落のみと云っても良いほどでした.復興に際しては,石垣の積み直しから行う必要があるので,長期戦を覚悟する必要がありそうです.
 その後,熊本城に関するいくつかの情報に接する機会がありましたので,この追加資料を準備してみました.

熊本地震についての追記です(2016.6.4.編集).

 5月5~6日の現地調査の際には西原村を訪ねることができませんでしたが,益城町と並んで被害が大きく,地震動の強さも震度7とのことでした.最近になって,新聞報道で集団移転の話が出ていることを知りましたが,後日の報道によりますと西原村はその報道は誤報であったと云い,新聞社もそれを認めているようです.
 この機会に,日本建築学会の中で公開されているウェブサイトから,地震動の強さについての情報を転載させていただきました.

関東・東北豪雨(2015.9.10.)に伴う鬼怒川決壊の被災地を再び確認してきました(2016.5.31.編集).

 9月10日の鬼怒川決壊から2ヶ月後に,一度被災現場を見ておかなければと思い立ち,常総市を訪ねてきましたが,今回,約半年後にもう一度被災現場がどうなったか見てきました.奇しくも,その10日後に新聞報道で決壊した堤防の修復作業が完成したことを知りました.

5月5-6日に熊本地震の被災地を訪ねてきました(2016.5.13.編集).
その2
その3
その4
その5

 5月5日と6日の両日,駆け足で熊本地震の被災地を訪ねてきました.主な立ち寄り先は,伊方町の伊方原発ビジターズハウス(到着が遅くなり入館できず),阿蘇市の阿蘇神社,南阿蘇村の東海大学学生寮,阿蘇大橋,黒川地区,河陽地区高野台団地などで,阿蘇市赤水から迂回路の大津町を経て益城町へ入りました.
 伊方原発と佐田岬半島は一度は見ておきたかった所で,そのため今回の調査では自宅から車を利用し,三崎港から佐賀関へ渡る国道九四フェリーにも助けられ,阿蘇市の宮地駅前に到着したのは5月5日の未明でした.そのまま2日連続の車中泊となりましたが,そのお蔭で,日の出から日没までを有効活用して調査に励み,夕刻には熊本市内のビジネスホテルに泊まることができました.
 今回の調査で最も多くの時間を費やしたのは,やはり被害甚大の益城町であり,当然の選択であったように思われます.現地では,災害対策の最前線で活躍している研究室の卒業生に逢い,多くの地元の方々からも貴重な体験談を伺うことができました.真に有難いことと感謝しています.
 関連資料が『東日本大震災から5年後の現実:備忘録ないしは切り抜き帳(その29, 30,31)』の中にあります.

新宿ゴールデン街がどんなところか見てきました(2016.4.18.編集).

 4月12日に新宿ゴールデン街で火事がありマスコミでも大きく取り上げられました.テレビ報道の映像を見ると,同じ新宿でも,新宿歌舞伎町のいわゆる雑居ビルの火災とはどこか様子が違うようです.そこで,新宿ゴールデン街とはどんな所なのか,訪ねてみました.
 ウィキペディアによりますと,新宿ゴールデン街の起源は太平洋戦争終結後の混乱期にできた闇市に起源があるようです.当時の東京都淀橋区・四谷区周辺では闇市が軒を連ねていて,新宿駅の東側には関東尾津組による「新宿マーケット」が広がっていたそうです.その後,新宿マーケットは屋台を中心とした飲み屋街に変貌し「竜宮マート」と呼ばれるようになりました.しかし,1949年に連合国軍総司令部(GHQ)が闇市撤廃を指示するに至り,東京都庁と警視庁は各店舗に対して翌年までの移転を命じました.それにともない,闇市の各店舗は代替地として新宿区三光町(今の歌舞伎町1丁目と新宿5丁目の一部)の一帯に移転し,その一帯が新宿ゴールデン街と呼ばれるようになったとのことです.

春の寺家ふるさと村ともえぎ野公園を歩いてきました(2016.4.10.再編集).

 横浜市が管理している青葉区の『寺家ふるさと村』は,里山風景の保存地区で,野草の宝庫でもあります.一週間ごとにチェックしていないと野草の入れ替わりを見逃してしまうほどです.桜が満開の今頃はすみれの季節でもあり,ヤマルリソウ,イチリンソウ,ニリンソウなどは見事にテリトリーを守って咲いています.
 もう一つのお気に入りは東急田園都市線藤が丘駅に近い『もえぎ野公園』です.寺家ふるさと村とは異なる種類の野草がありますので,やはりチェックが欠かせません.シュンラン,ヒトリシズカ,ホタルカズラ,ウグイスカグラ,ニワトコ,シャガなどが見ごろを迎えています.
 わが家の庭にも結構な数の植物が野草と共存しながら茂っていますが,油断をすると野草の勢いに押されて隠れてしまいそうです.

福岡沖地震から11周年の玄界島を訪ねてきました(資料編集:2016年3月25日).

 2005年3月20日に発生した福岡沖地震からちょうど11年目に福岡を訪問する機会がありましたので,完全に復興した玄界島を見ておきたいと思い,訪ねてみることにしました.
 玄界島までは博多埠頭から市営渡船で僅か35分の距離で大変便利なのですが,島に着いてから難問にぶつかりました.帰りの船便は上陸から僅か25分後か,それともさらに3時間後のどちらかを選ばねばなりませんでした.狭い島の中で3時間余を過ごすのは大変でしたので,即座に25分間の方を選択し,直ちに高台最上段の玄界小中学校を目指しました.
 なんとも忙しない現地調査となりましたが,これまでに地震直後(地震翌日)の全島民が島外避難された後の惨状と,大規模な斜面の造成工事中のところを見せて頂いておりましたので,今回は新しくなった街の様子を,駆け足で確認するだけで充分でした.

皇居東御苑を歩いてきました(2015.11.24.編集).

 小春日和の中,皇居東御苑を野草散策の目的で歩いてきました.東御苑は一般に開放されていて,その気にさえなれば何時でも訪ねることはできるのですが,なかなか機会がありませんでした.
 初めて東御苑に入って圧倒されたのは石垣の見事さでした.江戸城ですから石垣があるのは当然なのでしょうが,御苑という言葉に勝手に騙されておりました.特に元禄の大地震で崩れた石垣を修復した痕跡が残されているところは印象的でした.
 野草をはじめとする植物群も,広々とした敷地の中でのびのびと育っているところが何とも心地よく感じられました.訪問客は大きく4つのグループが目に付きました.外国人の観光旅行のグループ,昼休みをくつろぐ近隣のサラリーマンやOL,広い芝生で遊ぶ子供連れ,そして我々のように散策を楽しむ老夫婦といったところでしょうか.

関東・東北豪雨(2015.9.10.)に伴う鬼怒川決壊の被災地を歩いてきました(2015.11.19.編集).

 9月10日の鬼怒川決壊から2ヶ月以上が経過した11月16日になって,やはり被災現場を見ておかなければと思い立ち,電車で常総市に向かいました.横浜から北千住経由で取手へ,そして関東鉄道常総線で水海道まで約3時間を要しました.
 現地を歩いた印象として,鬼怒川と小貝川に挟まれた常総市にとって豪雨災害は云わば宿命ではないかと強く感じました.鬼怒川の決壊は昭和13年以来とのことで,やはり災害は忘れた頃が問題なのかも知れません.
 関連資料が『折々のトピックス(2015.9.10.編集)』と『東日本大震災から4年半後の現実:備忘録ないしは切り抜き帳(その21)』の中(9/17)にあります.

最近問題になっている施工不良マンションの立地条件を見てきました(2015.11.18.編集).

 最近問題になっている施工不良マンションには,杭打ち工事に関するデータ改竄すなわち施工段階の管理データを故意に書き換えたりねつ造したりする場合と,杭打ちが支持層まで達していないのに工事を打ち切ってしまう本来の施工不良の場合の2種類が混在しているようです.
 11月3日に横浜市の2つの現場を訪ねてみましたが,現地のガードはやはり固くて,問題の個所を見せて頂くことはできませんでした.それでもウェブサイトをしきりに検索していますと,問題の所在は自ずから見えてきました.
 ごく最近になって,古い地形図でマンションの立地環境を調べながら,考えたことを整理してみました.
 関連記事が『東日本大震災から4年半後の現実:備忘録ないしは切り抜き帳(その22)』の中(11/4)にあります.

立川市砂川町を訪問するついでに周辺を歩いてきました(2015.11.7.編集).

 たまたま新聞で『基地拡張拒んだ…砂川闘争60年』なる記事を見て,砂川町を訪ねてみようと思い立ちました.関連のイベント(講演会や展示,記録映画の上映)も予定されているとのこと.すぐさま行動に移せるのはリタイア組の特権で,これを利用しない手はありません.
 そこで下の地図のような行程を組んで,昭和記念公園から砂川町に出て,玉川上水に沿って歩き,その後は多摩モノレールで立川駅に戻り,イベント会場へと向かいました.イベントはたいへん盛りだくさんで,とても全てを紹介することはできませんが,砂川闘争60周年のつどい実行委員会およびボランティアの皆さんの熱意には本当に圧倒されました.また,かつての砂川闘争と現在の米軍横田基地,沖縄の問題が一連のものであることが非常に良く判りました.
 もう一つ忘れられないのは,砂川町の上空をひっきりなしに行き来する自衛隊ヘリの轟音でした.あまりの頻度に驚いたのですが,もしこれがオスプレイなら騒音の大きさはこの比ではないものと思われます.
 関連記事が『東日本大震災から4年半後の現実:備忘録ないしは切り抜き帳(その23)』の中(11/10)にあります.

神戸市で開催された日本地震学会秋季大会に参加してきました(2015.11.2.編集).

 今年の地震学会秋季大会はポートアイランド(地元では略してポーアイと呼ばれる)の神戸国際会議場で開催されました.昨年の建築学会年次大会も神戸大学で開催されていましたので,学会での神戸訪問は2年連続となりました.
 今回の特徴の一つは『阪神・淡路大震災から20年を迎えた地震研究の到達点と課題』との特別セッションが設けられていたことで,神戸開催は正にタイムリーでした.そう云えば,昨年の新潟大会は『新潟地震50周年,新潟中越地震10周年』を記念する大会であったのに,新潟地震の方は殆ど顧みられることがなかったとの印象がありました.果たして今回は・・・

3泊4日で草津白根から志賀高原,糸魚川を経由して大糸線沿いに小谷・白馬両村を見てきました(2015.10.15.編集).
その2

 高校時代の同窓会が草津温泉で開催されることになり,その機会を利用して,これまで訪れたことがなかった白根山,志賀高原,糸魚川,そして昨年11月に長野県北部地震で被災した小谷村と白馬村を一挙に訪問することにしました.これらの地域を効率よく回るには車を利用するのが好都合で,宿泊地は同窓会の開催地である草津と,志賀高原の高天ヶ原,白馬村に定めて出発しました.
 高校の同窓会については個人情報のこともありますので,ここには一切掲載していませんが,何と80人もの参加がありました.毎度のことですが地方の高校にしては出席率が高く,学生時代に帰って(学生時代の写真を銘々が首にぶら下げて)存分に楽しむことができました.
 実は,白根山は火山活動が活発なため(白根山の火山活動を監視しているのは我が東京工業大学なのですが)湯釜へは行けませんでしたが,同窓会の始まる前に本白根山に登ってきました.天候は良かったのですが,吹き上げる風は強烈で,何度も吹き飛ばされそうになりながらの登山となりました.
 白根から志賀高原へ抜ける渋峠ルート(国道292号)は海抜2,152メートルで,ガスのためライトを点灯しないと走れないほどでしたが,火山活動による規制のため夕方5時以降は通行禁止ということもあって,スリル満点でした.
 志賀高原では目が覚めるような黄葉の樹林(ぶな林)を満喫しましたが,それもつかの間で,上信越自動車道で糸魚川に向かいました.それ以降のルートの説明は不要と思いますので割愛させて頂きますが,建築の友人からの助言があって糸魚川の谷村美術館を見ることができたのは誠に幸運でした.
 長野県北部の地震(長野県神城断層地震)が発生したのは昨年11月22日のことで,新潟市で開催される地震学会年次大会に出発する直前のことでした.地震学会の帰路に立ち寄るべく切符の手配もしていたのですが,大糸線が斜面崩壊で不通になり,結局,直後の現地調査は断念することになりました.その後もなかなか訪問の機会がありませんでしたので,今回の小旅行の第一の目的は小谷・白馬両村を訪問することにありました.その結果や如何に・・・

今回の台風18号災害に関係して鬼怒川決壊のTV報道には心が痛みました(2015.9.10.編集).

 災害報道の時は何時もそうなのですが,災害現場は一体どこなのか,そこの地理・地形の環境はどのようなものか,と云ったことが大変気になります.利根川水域でもとりわけ小貝川流域は,これまでにも多くの水害があったと思いますが,それにも増して今回の水害が酷かった理由を知りたいと思っています.
 自分では何も調査できませんが,とりあえずウェブサイトから,いくつかの基本的な情報を得ることができました.今回はじめて「日本河川図」や「川だけ地図」の存在を知ることができただけでも良い勉強になりました.
 関連記事が『東日本大震災から4年半後の現実:備忘録ないしは切り抜き帳(その21)』の中(9/17)にあります.

東海大学湘南キャンパスで9/4~9/6に開催された日本建築学会年次大会に参加しました(2015.9.7.編集).

 今年の大会は関東大会ということで,特に神奈川県在住者にとってはありがたいことでしたが,それでもバスや電車を使って会場まで到着するには2時間弱を要しました.会場の教室が込み合うこともなく,暑くもなくて,例年になく快適な大会でした.週末にはキャンパス内で朝市も開催されていてラッキーと思っていましたら,わざわざ大会のために準備された地元のご好意とのことでした.
 大会の中身は,学術講演会(一般の口頭発表)が66の教室で同時進行で行われ,この他にテーマ別の36の研究協議会やパネルディスカッションが準備されていて,これらの中から自分の関連分野や興味の対象を探して参加することになります.招待講演は別にして,一般の口頭発表の場合には持ち時間が8分(発表時間は僅か6分だけ)しかないので,発表者は額に汗して早口で孤軍奮闘していました.リタイアした身としてはそれらの研究発表を楽しみながら拝聴することになり申し訳なく感じておりました.
 発表内容を遠くから聴いておりますと,最先端の手法を駆使した発表が見られる一方で,昔ながらの研究課題を未だにコツコツと行っている発表もあって,言いたいことはあっても実際にそれを口にすることはなかなか容易ではありません.気が付けばいつの間にか「大局を見失うな…」と岡目八目の心境になっておりました.
 大会での何よりの楽しみは,旧知の友人に効率よく逢えることで,長話をしなくとも心が通じ合い安心した気持ちになれるから不思議なものです.

以前(2007年11月)に栃木県の大谷石採石場跡や今市地震の痕跡を巡るツアーを企画・実行した時の資料をまとめてみました(2015.8.26.編集).
その2
その3

 日本免震構造協会内部の委員会ではある時期に,メンバーの親睦も兼ねて,地震活断層を見学に行くということを毎年やっておりました.2007年11月には鬼怒川温泉に1泊して,周辺の地震環境や大谷石採石場を見学するツアーを企画・実行しました.
 注目すべき見どころは3つあって,1つは,建築材料として名の知れた大谷石(フランク・ロイド・ライト設計になる旧帝国ホテルのエントランスに多用されている)の採掘場跡とそれが1989年に突然陥没崩壊した現場を視察すること.2つ目は,1949年に発生した今市地震の痕跡を確認すること.そして3つ目は,主目的である関谷活断層を実際に視察することでした.
 いずれの場所もかなり年月が経過した後の視察ですので,企画担当としては心配もあったのですが,参加されたメンバーの方々にはなんとか満足して頂けたようで安堵したことを覚えています.
 このうち,日光杉並木に残された今市地震による地滑り跡(地震坂)は,ごく最近の台風によって杉並木の一部が大きな被害を受けたことから,今も健在(?)かどうか確認ができておりません.

ずっと昔,キューバを訪問した時の資料をまとめてみました(2015.8.26.編集).
その2

 ずいぶん昔(1996年)のことですが,JICA(当時の国際協力事業団)の依頼でキューバに短期専門家として派遣されたことがありました.地震防災の国家支援プロジェクトを立ち上げるに当たって,当地にそれを受け入れるだけの準備や人材が整っているかどうかを調べてくるのが目的でした.
 当時はフィデル・カストロ議長もまだ健在でしたが,ソ連邦の崩壊によって経済的危機の状態にあったのは共産諸国に共通のこととして,キューバにはさらに米国の支援だけは受けたくないと云う意地のようなものがあったようです.
 ハバナの街を歩いてまず気がついたのは,スペイン統治時代の組石造建築群がその後アメリカによってペンキだらけにされた姿でした.しかもそれらの建築群は全く補修がなされておらず外壁が相当痛んでおりました.街路を走る車はポンコツの大型アメ車ばかりでした.
 国家地震学研究センター(CENAIS)の研究者と出会ってからの印象はすっかり変わってしまいました.優秀な研究者はソ連留学の経験者ばかりで,研究に対してずべての知識を吸収したいとの意欲の凄さには圧倒される思いでした.それこそパソコンなど,すべての部品をバラバラにして即座に組み立ててしまうほどです.
 「まさに,不足していたのは経済力だけ」ということが良く理解でき,JICAにもそのように報告させてもらいました.しかし,非常に残念なことにJICAにはこのプロジェクトを即座には実施に移せない事情があったようです.一つには,大きな災害の直後であれば事業の立ち上げは比較的容易であるが,災害が起こってもいない地域での新規事業の立ち上げには躊躇いがあること.
 もう一つは恐らく,米国に対する遠慮みたいなことがあったのではないかと云うことでした.後者については全くの想像に過ぎませんが,恐らくそうでしょう.とても残念です.
 一つだけ大変嬉しかったのは,このキューバ訪問のお蔭で,文部省科研費を受けて我々が実施していた地震防災の国際共同研究にキューバの研究者も加わってもらえたことでした.

京都散策の機会に琵琶湖疎水に沿って歩いてきました(2015.6.17.編集).

 大学時代の同期の仲間と京都を散策する機会がありました.主目的は栂尾高山寺・槙尾西明寺・高尾(雄)神護寺を巡る三尾ハイキングコースでの野草の会でしたが,以前TV番組『ぶらタモリ』で紹介されていた琵琶湖疎水をどうしても見たくて,その翌日に決行することになりました.この無謀な計画を見かねた京都に詳しい友人のお蔭で,目的をほぼ達成することができました.
 琵琶湖疎水は第3代京都府知事・北垣国道の努力によって明治18年の着工からわずか5年後の明治23年に完成していますが,驚くべきは当時工部大学校学生であった田辺朔郎の卒業論文「琵琶湖疏水工事の計画」がその端緒となっていることです.また,北垣知事が田辺青年の技量を見込んで,すぐさま土木技師として招聘し工事に当たらせたことも大変な決断であったと思われます.
 琵琶湖の水を京都に誘導することは,ただ単に飲料水の確保ばかりでなく,水運を開き,水力発電によって西陣織などの工場を興し,路面電車を走らせるなど,東京遷都によって衰退の危機に瀕していた京都に活力を呼び戻すために甚だ貢献大であったとのことです.

新潟市で開催された地震学会の年次大会に参加してきました(資料編集:2014年12月5日).

 11月24日から26日までの3日間,地震学会秋季大会が新潟市で開催されました.
 会場は写真撮影禁止とのことで画像はなにもありませんが,非常に残念であったのは『新潟地震50周年・新潟県中越地震10周年』を謳いながら,新潟地震についての発表も記念行事も殆ど見られなかったことです.
 新潟県防災局の方の防災行政に関する報告の中にも,中越地震のことは丹念に考慮されているのに対して,新潟地震への関心は皆無でしたし,市内を歩いて新潟地震の痕跡が何か残っていないかと探してみましたが,何も見当たりませんでした.
 それではと,なるべく高齢者を探して声を掛けてみたのですがこれも空振りで,まるで『浦島太郎』状態でした.
 中越地震と新潟地震とでは全く震災の格が違います.新潟市内で今後,新潟地震の時のような地盤災害が発生しないのであれば,それでも良いのかも知れませんが,本当にそうでしょうか?
 関連記事が『東日本大震災の現状と問題点~備忘録(その11)~』の中にあります.

8月20日に発生した広島市安佐南区の土砂災害現場を調査してきました(資料編集:2014年9月17日).

 8月20日から新聞やTVでは繰り返し広島土砂災害の様子が詳細に報じられていました.
 しかし,被災地の地形・地盤環境や,被災地相互の位置関係をきちんと理解しようと思えば,やはり現地を見せて頂くしか方法がなく,神戸で日本建築学会年次大会が開催される直前の9月10,11の両日に広島を訪問してきました.
 特に10日は,残された2人の遺体捜索のために自衛隊・警察・消防が総動員で活動中であり,現場の雰囲気は重々しく感じられました.残された2人のうちの1人,新聞配達員の男性が発見されたことは翌日のTV報道で知ることができました.
 それまでの平和で穏やかな家庭生活を一夜にして奪い去ってしまう土砂災害の酷さには本当に心が痛みますが,その一方において,私たちが終の棲家を得てそこに住むという行為には,経済性や利便性・快適性といった側面だけでなく,安全面での周到な心づもりが必要であることを今さらながら痛感させられた次第です.
 関連記事が『東日本大震災の現状と問題点~備忘録(その11)~』の中にあります.

台風26号で土石流災害を蒙った伊豆大島に行ってきました(資料編集:2013年10月24日).

 10月22日に日帰りで伊豆大島を訪問してきました.伊豆大島へ行くのは1986年の三原山噴火災害の時以来ですが,三原山カルデラ内部に溢れ出て冷え固まった溶岩流や山腹に点々と連なった割れ目噴火の火口列は,今でも鮮明に記憶に残っています.
 その時の火山灰で覆われた山腹斜面が今回の台風26号による824mmもの総降水量によって崩壊を起こし,元町地区の一部が土石流に飲み込まれた様子をTVや新聞報道で見ておりましたが,どうしても被災地域の拡がりの大きさや位置関係がつかめず,捜索活動の邪魔にならないよう現地を歩いてきました.
 大島へは竹芝桟橋から高速ジェット船で2時間弱,以前に比べれば随分と便利になったものです.帰りの船便までちょうど3時間をひたすら歩くことに専念しました.
 関連記事が『東日本大震災の現状と問題点~備忘録(その6)~』の中にあります.

2011年台風12号で被災した紀伊半島南部の状況(作成:2012年9月3日).

 2011年9月の台風12号豪雨災害調査は2011年10月に行ったものです.
 明治22(1889)年の大水害に匹敵する災害とのことで,その122年前の水害の時には十津川村の被害が余りにも大きかったために2500人もの村人が北海道に移住したり,熊野川の中洲にあった熊野坐神社が壊滅・流失し現在の熊野本宮大社へと移築されるといった大事件が発生しています.
 今回の豪雨災害ではゆっくり台風による豪雨(累積降雨量1600mm以上)が熊野川(十津川)上流の山間地域で深層崩壊をもたらし,下流地域では東日本大震災の津波災害に匹敵するような大洪水をもたらしました.

紀州串本の橋杭岩(撮影:2011年10月).

 2011年9月の台風12号豪雨災害調査(下欄を追加しました)の途中に立ち寄ってきました.その時は特段気にとめていませんでしたが,最新号の文科省地震本部ニュースによれば,周辺に散乱している巨礫は橋杭岩が津波によって破壊された,いわゆる津波石ではないかとのことです.

大自然の驚異(シリア)

 シリアは現在とても気の毒な政治情勢に置かれていますが,東トルコと同様の歴史建築の調査を行う機会がありました.
 このような現地調査は,相手国の研究者との友好関係があってはじめて成り立つものであることは云うまでもありません.
 地元の方々は特段驚きもしないのですが,やはりここでも大自然の驚異と,そのような自然環境のもとで生活している人々の暮らしぶりには圧倒される思いでした.

大自然の驚異(東トルコ)
歴史遺産としての古代教会建築(東トルコ)

 東工大篠野研究室が行っている歴史遺産としての教会建築の調査のために,何度か東トルコを訪問する機会に恵まれました.
 歴史建築と地震工学のコラボレーションという意義深い研究テーマでしたが,それ以前に,アナトリア高原の大自然の雄大さと異様さに圧倒されてしまいました.
 イスラム世界の中の山奥に古代キリスト教建築がひっそりと息を潜めている姿にも感銘を受けました.

エチオピアの印象(1998年の体験から)

 少し昔の話になりますが,エチオピアを訪問した時の印象が今でも強く心に残っていますので,数葉の写真を掲載させて頂きます.
 エチオピアに限らず当時は,留学生が学位を取得した後,母国で活躍している様子が見たくて,また野外調査などの応援がしたくて,国際共同研究の名のもとに可能な限り海外に出かける努力をしておりました.
 専門の研究活動のことは別にしましても,さまざまな気候風土や人々の生活風習に接する機会はとても貴重なもののように思われました.

紀州周参見の褶曲構造(2011年3月~10月)

 『天鳥の褶曲』と呼ばれている褶曲構造を訪問する機会がありました.野球帽がスケールになっていますが予想したよりも小規模なものでした.
 近くには『フェニックス褶曲』と呼ばれる大規模の褶曲構造もあって初回は場所を確認できませんでしたが,後日になって驚くべき展開がありました.
 下の写真は月刊誌『サライ』2019年9月号に掲載されていた写真が余りにも素晴らしかったので転載させて頂きました.

2010年10月20日に水害に襲われた奄美大島

 2ヶ月後に被災地を歩き水害の甚大さを実感してきました.時間雨量130mm,連続雨量1,000mmの豪雨は小さな島にとって大変な脅威であったと思われます.

常願寺川の巨大な転石(富山での建築学会大会に際して,2010年9月)

 1858年飛越地震による立山カルデラの崩壊土石がその後の豪雨によって下流まで運ばれてきたもののようです.





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