東日本大震災関連のトピックス



週刊誌のグラビア記事『できなかった卒業式 震災遺構「浪江町立請戸小学校」』を転載させていただきます(資料編集:2024年3月23日).

週刊誌のグラビア記事で震災遺構となった請戸小学校の写真を見て,過去に同校を訪問した時のことを思い出しました.

今朝の読売新聞に掲載されていた特集記事『震災・赤字・朝ドラ 三陸鉄道の今』を転載させていただきます(資料編集:2023年11月12日).

東日本大震災から12年後の被災地のいくつかを訪ねてきました(資料編集:2023年3月15日).
その2
その3
その4
釜石の“奇跡と悲劇”「鵜住居地区防災センター」津波調査委員会発足の経緯

朝日新聞が連載していた『災後の風景@石巻』を転載させて頂きます(編集 2023年3月4日).

前報を補足するために釜石市唐丹本郷・両石の津波資料を探してみました(資料編集:2023年1月30日 追記:2月2日).

東京新聞の社説に触発されて関係資料を集めてみました(資料編集:2022年9月1日).

3月16日に発生した福島県沖の地震の被害現場を幾つか訪問してきました(資料編集:2022年4月1日).
その2

朝日新聞デジタルに掲載されていた請戸小学校の津波避難の記事を転載させていただきました(資料編集:2022年1月27日).

 NPO「団塊のノーブレス・オブリージュ」が作った絵本『請戸小学校物語 大平山をこえて』の紹介の中に,浪江町の請戸小学校の児童たちが津波からいかに避難したかが描かれているようです.

9月29日から10月2日までの3泊4日で仙台-志津川-気仙沼-陸前高田-宮古-田老-田野畑-盛岡を電車とバスを利用して廻ってきました(資料編集:2021年10月5日).
その2

 今回はバスや電車の中で考えることの多い旅でした.JR気仙沼線と大船渡線のBRTバスが電車の路線上を走るのには妙な快感があって大いに楽しめました.また,三陸鉄道特に北リアス線の津波からの復旧が驚くほど早かったのは,トンネルが非常に多いことと,ほとんどの区間が高台を走っているためであることに,遅ればせながら気が付きました.一方のJR山田線は,宮古から盛岡に向かって,閉伊川との交差を繰り返しながら区界駅まで川筋に沿って走っているため,トンネルが極めて少なく,木の枝にバサバサと車窓を擦られながら走っていて,これはこれでとても趣のある電車の旅でした.

以前に陸前高田市で出逢いのあった『岩頭の女』について新たな展開がありました(資料編集:2021年9月25日).

 2012年9月末に災害調査のために陸前高田市を訪問しました.市の中心部は,幾つかの鉄筋コンクリートの建物を残すのみで,ほかは全て津波にさらわれて跡形もありませんでした.市役所や消防署の建物とは別に,中央公民館と体育文化センターの複合施設があって,その前庭には片付けられた車両などの瓦礫が集積されていました.その瓦礫の山と被災建物の間には大きな岩が放置されたままになっていて,よく見ると岩塊の側面には『岩頭の女』と書かれたプレートが逆さまになっていました.この巨石は,津波の力によって裏返しにされたと云うことでしょう.『岩頭の女』とのまったく偶然の出会いでした.
 帰宅してからネット検索してみますと,『岩頭の女』が陸前高田市に設置された経緯や,その当時(震災前)の写真がすぐさま入手できました.まったく便利な時代になったものと感じ入った次第ですが,そのネット情報によれば『岩頭の女(がんとうのひと)』は彫刻家柳原義達氏の作品で,1978年3月12日に塩釜市在住の臼井かつ氏によって,陸前高田市の文化施設の竣工を記念して寄贈されたことが分かりました.
 さらに,つい最近になってもう一度ネットで『岩頭の女』を検索してみますと,津波に流された『岩頭の女』のブロンズ像が修復されて,盛岡市の岩手県立美術館に収蔵され常設展示されていることが分かりました.以下に関連の資料を転載させていただきます.

横浜関内のニュースパークで開催されている企画展『3.11から10年』を見せていただきました(資料編集:2021年9月17日).

 今回の企画展では,当然のこととして,岩手・宮城・福島の地元紙による東日本大震災から10年間の紙面や写真,記者らの寄稿が中心となっていて,10年前の大震災と大津波災害,そして福島第一原発事故を被った被災地の方々がこの10年間をどのように過ごして来られたのか,その過程をあくまでも新聞記事を手掛かりにして辿ってみることを目的にしているようでした.言葉で言うのは簡単ですが,10年間にも及ぶ新聞紙面を思いを込めて辿る作業は容易なことではありません.

東京新聞に連載されていたルポルタージュ『ふくしまの10年・科学者 未来への伝言』を転載させて頂きました(資料編集:2021年3月20日).

 その碑文は次のように刻まれている.『原発悔恨・伝言の碑 電力企業と国家の傲岸に/立ち向かって40年/力及ばず/原発は本性を剝き出し/ふるさとの過去・現在・未来を奪った//人々に伝えたい/感性を研ぎ澄まし/知恵をふりしぼり/力を結び合わせて/不条理に立ち向かう勇気を!/科学と命への限りない愛の力で!//2021年3月11日/早川篤雄・安斎育郎』

東京新聞“こちら特報部”に連載されたルポルタージュ『「次」が来たら 被災3原発のいま』を転載させて頂きました(資料編集:2021年3月13日).
その2
その3

 東日本大震災から10年を機に,当時の災害のことが様々な視点から語られ,見直されようとしているところである.ここで取り上げられたのは福島第一・女川・柏崎刈羽の3原発で,それぞれの被災経験が地元の人々によって語られている.

東日本大震災から10年目の宮城・福島の復興状況の確認と2月13日に発生した福島県沖の地震(M7.3)の調査を兼ねて現地を歩いてきました(資料編集:2021年3月12日).
その2
その3
追記(資料編集:2021年3月25日)

 今回の調査の目的は,東日本大震災から10年が経過した被災地の,幾つかの気になる地域の現状を自分の目で確かめておきたいことが一つ,そしてもう一つは,2月13日に発生した福島県沖の地震で震度が大きく出た幾つかの地域の被害実態を確認しておくことにありました.新型コロナの緊急事態宣言が発令されている中での調査には若干の後ろめたさもありましたが,震災復興の過程や被害の実態を是非とも自分自身の目で確かめておきたいとの誘惑の方が勝っていました.実際に現地で確認できた点を記述してみました.
   今回,訪問させて頂いた地域を行程順に記してみますと,3月8日に横浜を出発し,東北新幹線で福島まで行き,在来線の桑折駅と藤田駅で途中下車しながら仙台にて宿泊.2日目の9日は仙台駅前レンタカーで常磐道を利用してまず双葉町に入りました.途中で地震による斜面崩壊の工事現場を通過しましたが,停車することは叶いませんでした.双葉町からはほぼ国道6号線に沿って北上し,浪江町請戸地区,南相馬市小高地区,新地町,山元町などに随時立ち寄りながら仙台に戻って,もう一泊しました.3日目の10日は仙石線で石巻に向かい,徒歩で門脇・南浜地区を見学させて頂きました.帰路は仙石線で仙台に戻り,そこから新幹線を利用しました.

朝日新聞の連載記事『記者が歩く 東日本大震災10年』を転載させて頂きます(資料編集:2021年2月21日).
その2(資料編集:2021年2月22日)
その3(資料編集:2021年2月28日)

 『記者が歩く 東日本大震災10年』は朝日新聞によれば「東日本大震災から間もなく10年.余震はいまも続き,13日夜にも最大震度6強の揺れが襲った. 復興に向けた人々の歩みは,前に進んだのか. 被災地を記者が歩き,考えました.」とのことで,5回ほど連載されるようです.

東京新聞の『あの日から・福島原発事故10年』と題する特集記事を再編して転載させて頂きます(資料編集:2021年1月31日まで).
東京新聞の『あの日から・福島原発事故10年』と題する特集記事の続報です(資料編集:2021年2月11日現在).
昨年10月から11月にかけて東京新聞に連載されていた『ふくしまの10年・地図に残してはいけない仕事』も関連資料として転載させて頂きます(資料編集:2021年1月13日).
昨年8月と12月に東京新聞に連載されていた『福島第一原発の汚染処理水の問題,福島第一原発の事故直後と最近の空中写真』も関連資料として転載させて頂きます(資料編集:2021年1月13日).
東京新聞が独自の調査によって定期的に発信している『本紙が実走して測定した福島第一原発周辺の放射線量』と『縮みゆく自治体 データで見る住民帰還』を関連資料として転載させて頂きます(資料編集:2021年1月25日現在).
1月5日から東京新聞が連載している『ふくしまの10年・イチエフあの時 続く苦闘編』も関連資料として転載させて頂きます(資料編集:2021年1月23日現在).
1月26日から東京新聞が連載している『<ふくしまの10年・詩が生まれるとき』も関連資料として転載させて頂きます(資料編集:2021年2月10日まで).
『<ふくしまの10年・詩が生まれるとき』つづき(資料編集:2021年2月13日現在).

 本日の東京新聞に『あの日から・福島原発事故10年』と題する福島第一原発事故の10年後の取材レポートが掲載されていました.連載記事はしばらく続きそうですので,その内容に注目しています.「2050年までに二酸化炭素(CO2)の排出を実質ゼロにする」と菅義偉首相が国会で胸を張ったのは良いのですが,その代替エネルギーを原発再稼働に頼るのでは元の木阿弥と云うものでしょう.東日本大震災とそれに伴う福島第一原発事故の10年後を冷静に見つめることから,本当の議論が始まるような気がしています.

日本建築学会の年次大会が開催された機会に1年半ぶりに仙台を訪ねてきました(資料編集:2018年9月9日).
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 日本建築学会の年次大会が9月3日から6日までの期間,東北大学で開催されましたので,その機会に1年半ぶりに仙台を訪問してきました.第一の目的はもちろん建築学会に参加することにありましたが,それ以外にも懐かしい宮城教育大学を訪問すること,いくつかの津波被災地を訪問し,その後の復興の状況を確認させて頂くことも目的の中に入っていました.建築学会の中では,一般の研究発表の他に,せんだいメディアテークで開催される『建築紛争フォーラム』と,川内萩ホールの『記念シンポジウム:祈りを包む建築のかたち-福島・世界を念いながら-』それに毎回,振動運営委員会地盤震動小委員会が主催する『地盤震動地域交流会』で大勢の研究仲間と顔を合わせることも大きな楽しみでした.
 建築学会の合間には,東北大学の広大なキャンパスや付属植物園を散策させて頂き,豊かな樹木や草花を楽しむことができました.また最後の貴重な一日をどのように使うか熟慮した結果,地下鉄東西線を利用して,まず薬師寺(陸奥国分寺跡)に立ち寄り,終点の荒井駅からバスで荒浜小学校に向いました.3.11津波で被災したこの小学校が最近,震災遺構として復活したことは地域交流会でも紹介があり,是非とも訪問したいと考えておりました.最後には,もう一度仙台駅に戻り,名取駅を経由して復興途上の名取市閖上地区を訪問しました.以前にこれらの地域を訪問した時には,どこもかしこも嵩上げ工事の真っ最中で,地元の方々からお話を伺う機会を持つことは叶いませんでした.今回は少しでもそれが叶えられればと願って出発しました.

東日本大震災から6年目の被災地を1年ぶりに訪問してきました(資料編集:2017年4月1日).
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 東日本大震災から6年目の3.11前後に,仙台とその周辺の被災地域の現状を見せて頂く機会がありました.
   前半の3月10日から11日にかけては,日本免震構造協会の入力地震動小委員会で一緒に活動していた研究仲間との“津波被災地見学会”で,この研究仲間とは,3年前にも南三陸町から女川町・石巻市までの被災地と女川原発を見学したことがありました.今回は,多賀城から東松島市にかけての比較的津波被害が小さいとされている地域の実態調査に重点を置き,時間の余裕があったので,もう一度,南三陸町から石巻市の大川小学校・雄勝地区を経由して女川町の復興状況を見せて頂くことにしました.
 後半の3月12日は上記の研究仲間と別れて,常磐線を利用して南相馬市の小高駅までの区間を見せて頂きました.本当は代行バスを使って富岡駅まで行ってみたかったのですが,バスは1日2便しか運行しておらず,諦めざるを得ませんでした.小高地区は以前に宮教大の学生諸君と見学に訪れたことがあったので,今回が2度目の訪問でした.本当は常磐線の各駅で降りて周辺を歩いてみたかったのですが,時間の関係でそれは叶わず,新駅が山側に移設された山元町の坂元駅と山下駅で途中下車し,坂元駅からは中浜小学校に向かって,山下駅からは旧山下駅へ向かって歩いてみました.
 3月12日の午後には,仙台国際センター展示棟で開催されていた『仙台防災未来フォーラム2017』を見学させて頂きました.各種のテーマセッション,ミニプレゼンテーション,ブース展示,連携シンポジウムなどから成るこのフォーラムは昨年に続いて2回目の開催で,その契機となったのは一昨年に仙台で開催された『第3回国連防災世界会議』とのことでした.テーマセッションやシンポジウムに参加することは叶いませんでしたが,ブース展示を巡りながら情報交換を行いました.特に以前お世話になった宮教大のブースでは,学長先生はじめ懐かしい教職員仲間や学生君にお会いすることができました.

東日本大震災で液状化災害を受けた潮来市で全国初の『地下水低下工法』による液状化対策が実施されるそうです(資料編集:2016年4月16日).

 潮来市では東日本大震災の際の苦い経験から,液状化災害の再発防止のため,全国に先駆けて大規模な液状化対策を実施することになり,2013年からすでに着工しているとのことです.
 ここで,地下水を排出することによって地盤強化を行うために採用されたのが『地下水低下工法』と呼ばれるものでした.1年前に当地を訪問した際には,この点に注目することはしませんでしたので,ここに改めて当時の写真と共に概要を提示し,記録に留めておきたいと考えた次第です.

東日本大震災からちょうど5年目の被災地を訪ねてきました(資料編集:2016年3月16日).
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 久しぶりに仙台の宮城教育大学を訪問し,3月10日の午後からスタッフの先生方や学生君たちと一緒に津波被災地視察研修に同行させて頂きました.訪問先は若林区霞目の浪分神社,荒浜地区と,名取市の閖上地区でした.荒浜地区は以前からほとんど変化がなく,震災遺構として保存が決まった荒浜小学校では校舎の補強工事が行われていました.閖上地区は嵩上げ工事の真っ最中で,土砂を積んだダンプカーがひっきりなしに走り回っていました.
 翌3月11日の午前中は最近開通したばかりの地下鉄東西線の東端,荒井駅の周辺を歩いてみました.駅舎の一角に新設された“せんだい3.11メモリアル交流館”を訪問するのが目的でしたが,付近に続々と建設が進められている戸建て住宅や震災復興住宅,七郷小学校,七郷中学校,七郷神社,応急仮設住宅などを次々に訪問し,最後に荒井駅に戻り,メモリアル交流館に設けられた祭壇にお参りしてから仙台駅に向かいました.
 午後は東松島市の野蒜地区を訪問することにしました.これまでは代行バスを利用していましたので,新しい野蒜駅で下車するのは初めてでした.駅前は大規模な造成工事中で,旧野蒜駅までは徒歩25分とのこと,まずは途中の野蒜小学校跡を目指しました.野蒜小学校周辺には特に大きな変化はみられませんでしたが,2月末に建立されたばかりの閉校記念碑には心打たれるものがありました.仙石線の電車が津波で被災した場所のすぐ近くでは,同年配の男性と話し込み,災害直後の様子などを詳しく教えて戴きました.この野蒜地区では,津波災害を何とか免れた住宅はそのまま居住することが可能で,嵩上げをすれば新築も可能とのことでした.
 関連記事が『東日本大震災から5年後の現実:備忘録ないしは切り抜き帳(その28)』の中にあります.

久しぶりの仙台訪問の機会に女川と石巻を訪ねてきました(資料編集:2015年12月10日).

 大学関係の中堅職員技術研修会のために久しぶりに仙台を訪問したのは折しも地下鉄東西線営業開始の日でした.これで青葉山奥地の宮城教育大学は便利になると思っていましたが,最寄りの地下鉄青葉山駅からは10分ほど歩かなければならず,しかもこれまでのバス便は大幅削減となっていて,これではどちらが良かったのか判かりません.
 石巻線が女川まで全線開通し,女川駅も新しくなったので,このことが今回の女川訪問の目的でした.新しいJR仙石東北ラインが5月から開通していることも知りませんでしたので,これも初体験でした.仙石東北ラインは東北本線で仙台から塩釜まで行き,高城町駅の手前で仙石線に合流すると云うもので,快速電車があるので大変便利になったようです.以前の東名・野蒜両駅付近は津波で被災していたことから,この区間の新しい路線は駅舎共々内陸側の丘陵部に移動していました.
 女川では新しい駅舎は出来たものの,町全体の復興はまだまだ,これからと云った状況でした.石巻では初めて一泊しましたので,津波の痕跡や関連資料を求めて市街地をゆっくり歩きまわり,交番の警察官,商店主,食堂,ホテルのオーナー,いくつかの津波情報館,工事関係者,駅員,通行人など,地元の多くの方々から貴重な話を伺うことができました.

3月の第3回国連防災世界会議から半年ぶりに仙台を訪問してきました(資料編集:2015年9月23日).

 9月12,13日の週末に仙台駅に近いAERアトリウムで開催された第3回公開集中講座『宮城教育大学防災ウイークエンド』に参加する機会がありました.仙台訪問は今年3月に開催された国連防災世界会議の時以来,半年ぶりのことでした.
 仙台に到着した11日は半日,石巻・女川の復興状況を見せて頂く予定でしたが,前日の豪雨災害の影響がまだ残っていて仙石線が動いておらず,その代わりに,これまで訪問したことがなかった若林区内の住宅密集地域を歩いてみました.狭い生活道路には袋小路が多く,特に地震火災に対して問題が多いのではないかとの印象を持ちました.
 さて,12日からの防災ウイークエンドですが,オープニングではまず宮城教育大学長から「なぜ宮教大は教員養成を専門とする大学であるにも関わらず,街へ出て市民の皆さんと交流しようとしているのか」との公開講座の趣旨が平易に紹介されました.続いて地元の漫才コンビ“ニードル”がボケと突っ込みの中でプログラムを紹介するという,これまでには見られなかった新しいスタイルで公開講座は始められました.

3月に仙台で開催された第3回国連防災世界会議に参加した印象を画像で整理してみました(資料編集:2015年4月16日).
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 第3回国連防災世界会議は3月14日から18日までの5日間,仙台市を中心に開催されました.延べ4万人の参加者を想定して,ホスト役の仙台市や東北大学は以前から入念な準備を進めてきており,会期中の仙台駅と駅前から続く商店街,さらにイベント会場となる勾当台公園などは正にお祭り気分に満ちていました.
 規模は小さいながらわが宮城教育大学でも千人規模の総合フォーラムを文科省・日本ユネスコ国内委員会と共に主催することになり,展示コーナーの準備も含めて大変な力の入れようでした.
 努力の甲斐があって,予想された4万人の参加者数はその4倍にも達し,主催者側の努力は大いに報われたように思われました.
 本体会議の方は立ち入ることが出来ないので推移はよく判りませんでしたが,同時に開催された一般向けのパブリック・フォーラムやパネル展示を見せて頂いた印象を画像でまとめてみました.
 関連記事が『東日本大震災の現状と問題点~備忘録(その14)~』の中にあります.

塩竈市の本塩釜駅を中心に津波の痕跡を捜してみました(資料編集:2015年1月25日).
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 仙台市と東松島市の中間に位置する塩竈市は,松島湾周辺の無数の島々に阻まれて,津波の被害が小さかったのではないかと勝手に想像して,これまで現地を訪問することはありませんでした.
 本塩釜駅に近い湾奥の緑地に建立されている塩竈市東日本大震災モニュメントには「自然の力を心に刻み,未来を見つめ塩竈に生きる」と刻まれていて,津波高さは本土で最大4.8メートル,離島の浦戸では8.0メートル超とありました.石碑の裏面には塩竈市での犠牲者65人の氏名も刻まれていました.
 津波被害の痕跡は港の周辺以外には殆ど見られませんでしたが,随所に記念碑や津波到達点を示す指標が置かれていました.
 塩竈と云えば塩竈神社が有名ですが,御釜神社などかつて製塩の地であったことの名残りや浦霞・男山など銘酒の蔵元,旅館や商家の古建築が集まる鹽竈海道あたりには文化の香りが一面に漂っているようです.
 関連記事が『東日本大震災の現状と問題点~備忘録(その12)~』の中にあります.

嵩上げ工事中の気仙沼・陸前高田を中心に歩いてきました(資料編集:2014年12月8日).
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 嵩上げ工事が本格的に開始されたとのことで,まる2年ぶりに気仙沼と陸前高田を訪ねてきました.気仙沼や陸前高田だけでなく,三陸沿岸の殆どの地域では土地の嵩上げ工事の真っ最中でしたが,工事の規模の大きさは地域によってまちまちとの印象を受けました.
 驚かされたのは巨大なベルトコンベアを用いた陸前高田の大規模な嵩上げ工事でした.工事現場のご好意で,採石場でのベルトコンベアへの土砂の積み出し状況まで見せて頂きましたが,現場事務所のお話では,当方が心配しておりました嵩上げ面の圧密沈下や法面の崩壊については,採石場の岩盤が硬質であるため全く問題ないとのことでした.
 とにかく2年前の津波被災地の面影は全く見られないほど,嵩上げ工事はすべてを覆い尽くしてしまいました.気仙沼と陸前高田では夫々高台移転の現場も見せて頂きました.
 今回はとにかく,嵩上げ工事と高台への集団移転の現場が目に付きましたが,逆に防潮堤の建設現場には殆ど出会いませんでした.
 また,今回初めて訪問したところでは,防潮堤を信じて低地に居住していた釜石市小白浜地区と,明治と昭和の三陸津波の経験から高台移転を徹底し今回は難を逃れた大船渡市吉浜地区との対比がきわめて印象的でした.
 また宮城県によって進められようとしている防潮堤工事に対して,それを受け入れようとする住民と,高台移転と自然環境保護の観点から反対する住民の間で論争があった気仙沼市本吉町の小泉地区では,海中に没した旧・南三陸シーサイドパレスと,美しい干潟や砂浜が戻りつつある状況とを確認してきました.

国道6号線に沿って福島県浜通りの津波被災地を見てきました(資料編集:2014年11月8日).
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 下記の地震断層調査のためいわき市を訪問する機会があったので,帰路は9月から通行可能となった国道6号線沿いの地域を走ってみました.
 現地調査を行ったのは10月26日でしたが,11月4日付けの東京新聞にも『国道6号ルポ』の記事が掲載されていて,津波災害と原発事故による二重の災害を蒙った国道6号線沿いの地域のことは,やはり忘れてはいけないことなのではないかと,今更ながら思い知らされました.
 関連記事が『東日本大震災の現状と問題点~備忘録(その11)~』の中にあります.

2011年4月11日にいわき市南部で発生したM7の地震の被災地を見てきました(資料編集:2014年11月8日).
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 2011年4月11日17時16分にいわき市南部で発生したM7の地震は,3月11日の地震の余震とも誘発地震とも考えられていますが,それはともかくとして,周辺地域には少なからず地震動による被害が発生し,地表には明瞭な断層変位が出現しているとのことで,遅ればせながら10月23日~25日の期間,井戸沢(塩ノ平)断層と湯ノ岳(藤原)断層の断層変位を確認するための現地調査を行ってきました.
 当初から漠然と理解していたのは,いわき市がネットで公開している情報によって,井戸沢(塩ノ平)断層が動いたのは4月11日17時16分の地震,湯ノ岳(藤原)断層が動いたのは翌4月12日14時07分の地震によるものであろうと云うことでした.しかし,藤原断層の変位を伴った藤原町内の2つの地震被害地点では,意外なことに「地震被害も断層変位も4月11日の地震で発生した」と云う当事者からの明瞭な証言が得られ,これが地震学上の大問題なのか,それとも単なるよくあることなのか,大いに気になっているところです.
 関連記事が『東日本大震災の現状と問題点~備忘録(その11)~』の中にあります.

宮教大の学生が主催する被災地視察研修に同行して南相馬市小高区を見てきました(資料編集:2014年7月21日).

 宮城教育大学の学生諸君は,3.11津波被災地の視察研修を繰り返し実行しながら,その経験を上級生から下級生へと引き継ぎ,さらにその後のボランティア活動につなげて行く努力をしています.ガイド役はその地域の出身者が中心となって引き受け,被災経験を交えた説明もよく準備されていて,教師を志す学生諸君のリーダーシップに感じ入った次第です.
 ところで,初めて訪れた南相馬市小高区村上地区の津波被災状況の酷さは想像以上でした.津波災害から3年以上が経過しているにも関わらず被災建物が放置されている状況を見るのは非常に辛いものがあります.
 文化的にも経済的にも非常に豊かで平和な地域社会が,福島第一原発の事故現場に近いというだけの理由で,突然人の住めない荒野と化してしまうと云う不条理には本当に心が痛みます.

宅造地が大規模な地盤崩壊を起こした仙台市青葉区折立地区の復興状況を見てきました(資料編集:2014年7月13日).

 仙台市青葉区折立地区は昭和30年代末から大規模な土地開発が行われ,昭和50年頃に一斉に宅地分譲された地域だそうです.
 昭和53宮城県沖地震の時には太白区緑ヶ丘地区のような顕著な被害は発生していなかったようですが,今回の3.11大震災では,ひな壇型の宅造地に大規模な被害が発生しました.
 仙台市が作成した地盤資料と照合してみますと,甚大な被害が発生した場所は盛土によって造成された場所に限られており,切土地盤では被害は全く発生していないことが確認できました.

3.11津波災害における各地の死者率から見えてくるもの(資料編集:2014年7月4日).

 3.11津波災害が平日の昼間に発生したことから,各被災地域の死者率を算出する際に人口を母数に採ることに疑問を感じ,死者率の母数に採るべき昼間人口の推定ができないものかと考えてきました.
 昼間人口を町字単位で推定することは容易でないので,ここでは仙台市の国勢調査の資料を用い,[昼間人口]/[人口]=[在宅率]と定義することによって,仙台市の津波被災地域における平均的な在宅率を求めてみました.
 そしてその値を他の津波被災地域にも援用することによって,広域に亘る津波被災地域の死者率を,母数が夜間人口(人口)の場合と昼間人口の場合とで比較してみようと考えました.
 すでに備忘録(その8,2014.4.22.)でもこのような検討を行ってみましたが,仙台市の町字別の総人口を15歳以上の人口と取り違えてしまったために,昼間人口や在宅率の算定結果にも大きな間違いを起こしていました.前回推定した在宅率0.55が大川小学校周辺地域の[犠牲者数+生存者数]/[人口]=[在宅率]と偶然に一致したために疑うことなくその値を採用してしまったのですが,今回改めて算出した仙台市内の津波被災地域での平均的な在宅率0.78を適用してみますと,結論も含めて大幅な修正が必要ですが,一方では新たな問題点も見えてきました.
 関連記事が『東日本大震災の現状と問題点~備忘録(その8)~』の中にあります.

『南三陸町長の3年(河北選書)』を読ませて頂きました(資料編集:2014年4月25日).

 南三陸町長佐藤仁氏へのインタビューをまとめた表記の刊行物は,東日本大震災で南三陸町に一体何が起こったのかを理解する上で大変貴重なものでした.
 発災直後には南三陸町がどこに位置するのかさえ分からず(古い地図では志津川町),それから数日して新聞を賑わせた「南三陸町で1万人と連絡とれず」の報には大いに驚かされたものでした.
 また昨年秋に南三陸町を訪問した時には,仮設の商店街になぜモアイ像が建っているのか余り注意もしていませんでしたが,本書を読ませて頂いて事情が大変よく理解できた思いがしております.
 すなわち,南三陸町(当時の志津川町)の津波防災の原点は1960年チリ地震津波の手痛い経験にあった訳です.その時の津波高さである5.5メートルには充分に備えてきたにも関わらず,今回のような15メートルを超える津波に対しては殆ど無防備だったと云うことでしょうか.

3.11災害から3年目を仙台で過ごしてきました(資料編集:2014年3月13日).

 3.11災害からちょうど3年が経過しました.少し前には,七十七銀行女川支店の津波避難指示を巡る仙台地裁判決がありましたし,その直後には,石巻市立大川小学校の津波災害について第三者検証委員会の最終報告に納得できない児童の遺族が民事訴訟を提訴するなどの慌ただしい動きがありました.
 3.11当日は各地で追悼集会や関連のイベントが開催され,東北大学や宮城教育大学などでは記念の研究集会が開催されました.筆者は3月9日に宮教大や東北大の研究集会に参加し,11日には名取市閖上地区で3年前の地震発生から津波襲来までの時間帯を過ごしました.
 少し不思議に感じたのは,いずれの追悼集会や記念式典でも何のためらいもなく14時46分,すなわち地震の発生時刻に合わせて黙祷を捧げていたことです.特に閖上地区の場合には,その時ほとんどの人が津波のことなど考えていなかった訳ですから,津波が実際に襲来した15時52分頃こそが本当に黙祷を捧げるべき時刻ではなかったかと考えたりしておりました.
 この機会に訪問した仙台市役所や石巻市役所では新たな発見がありましたので,またの機会にご報告したいと思っているところです.
 関連記事が『東日本大震災の現状と問題点~備忘録(その8)~』の中にあります.

丘陵部の宅造地に斜面崩壊が発生した仙台市内の緑ヶ丘地区を歩いてきました(資料編集:2014年2月22日).

 仙台市太白区の緑ヶ丘地区は1978年宮城県沖地震の際にひな壇造成地が崩壊を起こした所です.その時は仙台市が被害を受けた土地を買い取り,集団移転の斡旋をするなど,非常に手厚い災害対応であったと記憶しています.
 東日本大震災でもまた,緑ヶ丘地区には同じような被害が発生していますので,今後の防災対応の推移に注目しているところです.時々現地に立ち寄って様子を見ていますが,震災から3年後の現在まで大きな進展は見られないようです.心なしか増えている空き地は「防災集団移転促進事業用地」として仙台市が管理しているようですので,宮城県沖地震の時と同じ経過を辿っているものと思われます.引き続き注目してゆきたいと考えております.

『津波災害と学校』についてさらに考察してみました(資料編集:2014年1月27日).

 3.11津波災害に際して,避難行動がうまくできた学校とそうでなかった学校とでは,社会からの評価に大きな違いが現れているのが現状のようです.しかし本当にそれで良いのでしょうか.
 実は,避難行動がうまくできた学校とそうでなかった学校との間にはそれほど大きな違いはなかったのではないでしょうか.
 ここでは仙台市立荒浜小学校,山元町立中浜小学校,南三陸町立戸倉小学校,石巻市立大川小学校の事例について考えてみようとしているところです.
 荒浜小学校の場合,もし小学校に留まらず内陸に向かって避難していたらどうなっていたでしょうか.
 中浜小学校や戸倉小学校では,もし津波があと数メートル高かったらどうなっていたでしょうか.
 大川小学校では津波襲来の直前まで,なぜ長時間校庭から動かずに居たのでしょうか.
 今後,学校の津波対策を考える際には,これらの『もし』や『なぜ』に左右されない,真の防災対策・防災教育でなければならないと肝に銘じているところです.

石巻市大川小学校の裏山を歩いてきました(資料編集:2013年12月24日).

 池上正樹・加藤順子著『あのとき,大川小学校で何が起きたのか(青志社刊)』に刺激を受けて,4回目の大川小学校訪問となりました.
 目的は,地震発生から津波襲来までの51分間になぜ避難行動がとれなかったのか,との多くの人々の疑問が未だ解決されていないことから,裏山への避難行動が可能であったのかどうかを,一度自分自身の足で確かめようと考えた次第です.本当は被災当時と同じ3月に試みるべきなのかも知れませんが,冬季であればそれほどの環境の違いはないように思われました.
 そこまでは良かったのですが,前日の雨の所為で,急斜面を登るのは決して簡単ではありませんでした.この点について池上正樹氏にお尋ねしたところ早々にご返事があり,ご教示を戴いたところでは「もっと緩やかな斜面があって,現在は誰も立ち入らないために草木で覆われてしまったのではないか」とのことで,裏山への避難は決断さえすれば可能であったそうです.
 関連記事が『東日本大震災の現状と問題点~備忘録(その6)~』の中にあります.

亘理郡山元町坂元地区を歩いてきました(資料編集:2013年9月28日).

 今回も宮教大・教育復興支援センターの先生方から情報を得て,亘理郡山元町坂元地区にある中浜小学校を訪ねてみることにしました.
 仙台平野から南方に阿武隈川を越えても海岸平野はさらに続いていて,山元町は福島県と海岸線で接しています.そしてJR常磐線の坂元駅は宮城県最南端の駅ということになります.
 常磐線は仙台駅から浜吉田駅まで運行していますが,相馬方面への代行バスは1駅手前の亘理駅からが便利で,坂元駅までたどり着くことができました.ただし,代行バスは国道6号線に沿って走るため,常磐線よりもかなり内陸側(西側)の仮駅で降ろされることになります.
 坂元バス停からJR坂元駅までは直線で1キロ強の距離でした.無人の駅跡のプラットフォームに立って周囲を見渡してみますと集落の跡形も見えないことに,今更ながら津波に対する恐怖心が湧いてきました.
 それから遠方に見える中浜小学校を目指してひたすら歩きました.中浜小学校の前に建てられた津波災害慰霊碑によりますと中浜地区では137人もの方々が犠牲になられたとのことです.
 小学校では運よく当時の校長先生が近所のご夫婦と花壇を造っておられるところに行き合わせ,校舎内部と緊急避難場所になった屋上の屋根裏倉庫まで見せて頂くことができました.そのあと,すぐ裏手の海岸で目撃した防潮堤に押し寄せる凄まじい波浪も印象的でした.
 関連記事が『東日本大震災の現状と問題点~備忘録(その6)~』の中にあります.

仙台市宮城野区の津波被災地を七北田川に沿って歩いてみました(資料編集:2013年7月28日).

 仙台平野の津波災害を理解しようと,岡田車庫行の市バスに乗り,上屋倉バス停で降りて七北田川の左岸河口を目指しました.
 第一の目的は石巻,閖上に続く第三の日和山を訪ねることでしたが,それ以外にも学ぶことは沢山ありました.肝心の日和山は津波で崩壊しており,その場所にはケルンが積まれていました.
 印象的だったのは,七北田川右岸(対岸)の景観でした.南蒲生浄化センターの建物のお蔭でその背後の防潮林がその場所だけ津波に破壊されないで残っており,その浄化センターの海側の海岸線には巨大な防潮堤が築かれようとしていました.
 まさか仙台平野の広大な白砂青松の海岸線の全てを防潮堤で覆うことはあり得ないとは思いますが,この防潮堤を一体どこまで連ねる積りなのか大変気になりました.
 七北田川に沿って歩いてみますと,上流に向かうにつれて津波被害は徐々に小さくなり,高砂中学校付近でその痕跡はなくなっていました.それでも近隣の方に話を伺うと,浸水高は約70cmで床上浸水はしたそうです.
 仙石線陸前高砂駅の周辺では,地震で被災しすでに解体された,高層マンション・サニーハイツの跡地を確認してきました.
 関連記事が『東日本大震災の現状と問題点~備忘録(その5)~』の中にあります.

津波被災地に立地する学校が果たすべき役割について考えようとしています(資料編集:2013年7月29日).

 さらに,南三陸町戸倉(折立)地区の戸倉小学校と戸倉中学校,石巻市雄勝地区の雄勝小学校と雄勝中学校を訪ねてきました.
 雄勝地区では学校の校舎だけでなく,殆どすべての被災建物が解体されてなくなっていました.しかし雄勝地区では小学校にしても中学校にしても避難行動は的確にできていたようです.
 戸倉小学校の津波避難行動が極めて模範的になされたことについては,事前に宮城教育大学の先生方から聞かされていましたので,その場所を確認することが当初の目的でしたが,やはり現地には自分の足で行ってみるものだと痛感させられました.
 高台上の戸倉中学校に津波の痕跡を見つけた時には唖然としました.この高台に避難した多くの人や車も津波に流されてしまったとのこと.応急仮設住宅がそこにあったおかげで大変貴重な体験談を伺うことができました.
 関連記事が『東日本大震災の現状と問題点~備忘録(その5)~』の中にあります.

津波被災地に立地する学校が果たすべき役割について考えようとしています(資料編集:2013年7月8日).

 下記の仙台市立荒浜小学校が良い例ですが,津波被災地域において小学校や中学校の校舎は,多くの場合,格好の避難場所として期待されているものと推察されます.
 しかし事前に何の申し合わせもなく,いきなり被災者が学校に押し寄せるような場合を想像してみますと,学校側ではどのように対応したら良いか,相当に悩ましい問題が発生するであろうことは想像に難くありません.
 そもそも学校自体が津波災害に対して安全な場所なのかどうか,防災の専門家でもない学校の教職員にその重要な判断を委ねることに根本的問題がありそうです.
 今回の東日本大震災では,学校への被災者の受入れが上手くいった例とそうでなかった例が見られましたし,学校そのものが危険に晒されたために学校からの避難行動を余儀なくされた例もありました.これらの事例を少しでも多く収集した上で,地域の防災拠点としての学校の役割をどのように考えたら良いか,極端なことを云えば,児童・生徒や地域の住民を津波災害から守るためには学校に立て籠もるべきか,さらに安全な場所に避難すべきなのか,到底一筋縄では行かない難問であるような気がしています.
 関連記事が『東日本大震災の現状と問題点~備忘録(その5)~』の中にあります.

仙台平野で津波被害の大きかった荒浜地区と閖上地区に注目しています(資料編集:2013年6月2日).
補足資料

 仙台平野にあって大きな津波被害を受けた仙台市若林区荒浜地区と名取市閖上地区に注目しているところです.
 荒浜地区は地区内の荒浜小学校への迅速な避難行動によって320人の命が救われたとのことですが,一方では,海岸の慰霊碑によりますと190人の方々が津波の犠牲になられたことが記されています.地区の人口は2,700人ほどですので,2,000人を超える人々がその時どこに居られ,どのように避難されたのか,未だによく把握されていません.
 一方の閖上地区については,すでにNHKスペシャルのTV番組や同名の出版物により詳細に報道されていますが,それでも避難行動の詳細については不明の点が多く残されたままになっています.結局,多くの地域で判明しているのは,人口と犠牲者の数だけのようで,これでは津波災害の本当の姿を理解できたことにはならないと思われます.
 関連記事が『東日本大震災の現状と問題点~備忘録(その5)~』の中にあります.

津波災害から2年後の田老地区を歩いてきました(資料編集:2013年4月8日).

 高山文彦著:大津波を生きる 巨大防潮堤と田老百年のいとなみ(新潮社)を読ませていただき,宮古市田老地区をもう一度きちんと歩いてみる必要を感じました.
 今回は盛岡までは新幹線,盛岡-宮古間はJR山田線,宮古-田老間は三陸鉄道北リアス線,田老から仮設住宅があるグリーンピア三陸みやこまでは岩手県北バスというように,電車とバスのみを利用し,さほど広くない田老地区内は歩き通すことにしました.
 前回の訪問から1年半が経過していましたので,漁業関係者はすでに活動を開始しており,町中でも生活の匂いが感じられるようになっていました.宮古市田老総合事務所のお話では,すでに復興計画が出来上がりつつあって,早ければ2年後には形が見えてくるのではないか,とのことでした.
 関連記事が『東日本大震災の現状と問題点~備忘録(その5)~』の中にあります.

東京電力は福島第一原発事故で亡くなった人はいないと言うけれど(資料編集:2013年3月11日).

 東日本大震災から2年ということで今日ばかりはTV報道も新聞も震災特集に工夫を凝らしているようです.朝日・毎日・読売・東京・神奈川の各紙を比較してみますと,1面で見る限り東京新聞のトップ記事『原発関連死789人』が断然他を圧倒していたようで,敬意を表したく思います.
 他の4紙は判で押したように『東日本大震災 きょう2年』が1面の主タイトルでした.また,紙面全体を通じて関連死の問題に触れていたのは東京新聞の他は読売新聞が第3面で取り上げていましたが,福島第一原発事故との関係には言及していませんでした.
 関連記事が『東日本大震災の現状と問題点~備忘録(その5)~』の中にあります.

函館市で開催された日本地震学会2012年秋季大会に参加してきました(資料編集:2012年10月23日).

 函館は昨年夏に奥尻島を訪問した時の経由地でしたが空港の外に出たのは初めてでした.大会初日には特別シンポジウム『ブループリント50周年-地震研究の歩みと今後』が,翌日からの3日間は4会場に別れて専門分野毎の口頭発表とポスターセッションが用意されていました.建築学会の大会と比べると参加人数が少ない所為か,発表時間にしても会場にしてもゆったりしていて非常に快適でした.
 大会会場は空港に近い市民会館・体育館で,函館駅近くの宿舎からは路面電車で小1時間を要しました.おかげで函館市内の地理が大変よく理解でき,路面電車と市バスを駆使し大会の合間を縫って時間を有効に使うこともできました.
 関連記事が『東日本大震災の現状と問題点~備忘録(その4)~』の中にあります.

関東地震の際の有名な体験談とよく似た体験談が今回も郡山で得られていました(資料編集:2012年10月15日).

 今回の体験談が信頼できるものであることは,昨年末にご当地を訪問し直接ご本人に確かめてきました.今回は付近で強震記録も得られていますし,震源メカニズムも関東地震の頃とは比較にならないほどよく理解されているはずです.これらの最新の知見に基づいて,果たして体験談を合理的に説明できるでしょうか.どなたか教えてくださいませんか?
 関連記事が『東日本大震災の現状と問題点~備忘録(その1)~』の中(7/2)にあります.

地震・津波災害から一年半後のいくつかの被災地を訪問して(資料編集:2012年10月1日).

 昨年9月末に陸中海岸を訪問してから東日本大震災の被災地を訪問できないでいたので,それから一年後を期して気になっているいくつかの地域を訪ねてみました.
 今回はできるだけ公共の交通機関を利用させて頂くことを課題の一つとして,仙台までの往復は深夜高速バスのお世話になり,初日のレンタカーは別にして,電車とバス以外はすべて歩き詰めの強行軍で,経済的には年金生活者向きではあったものの,体力的には決して高齢者向きではありませんでした.
 関連記事が下記の『東日本大震災の現状と問題点~備忘録(その4)~』の中にあります.

福島第一原発事故に関わる周辺住民の避難行動(資料編集:2012年7月16日).

 国会事故調の参考資料に掲載されている原発事故に関する周辺住民へのアンケート調査資料はこれから詳細に吟味される必要がありそうです.特に公表が大幅に遅れたSPEEDI試算データや米エネルギー省による航空機モニタリングデータとの照合は重要であろうと思われます.
 関連記事が下記の『東日本大震災の現状と問題点~備忘録(その2)(その3)~』の中にあります.

金曜日恒例となった総理官邸/国会議事堂周辺での原発再稼動への抗議行動(撮影:2012年7月13日).

 毎週行われているこの抗議行動がどのようなものか初めて参加してきました.主催するリーダーはもちろん居るのでしょうが,原発再稼動に不安を持つ人達が特段の準備もなく,スクラムを組むでもなく,シュプレヒコールを叫ぶでもなく,夏祭りのように集まって来る感じで,機動隊員も『ソフト警備』に徹しているようです.

『此処から下に家を建てるな』で有名な宮古市姉吉の大津浪記念碑と普代村の津波防災之碑(撮影:2011年9月28日).

 明治と昭和の三陸大津波から得た『此処から下に家を建てるな』との姉吉地区での教訓は現在でも守られており,海抜50mを死守した集落は今回の災害でも無被害のままだったようです.
 関連記事が下記の『東日本大震災の現状と問題点~備忘録(その1)~』の中にあります.

以前から模範的津波防災対策で知られていた宮古市田老町と下閉伊郡普代村の現状(撮影:2011年9月28日).

 過去の津波災害の教訓から万全の津波防災対策を施してきたはずの両地域ですが,結果には大きな違いが現れていました.
 関連記事が下記の『東日本大震災の現状と問題点~備忘録(その1)~』の中にあります.

宮古市の津波被災現場をほぼ同じ位置から見てきました(撮影:2011年9月28日).

 上の写真は津波来襲中の様子(左が閉伊川下流方向,右が上流方向)を捉えた貴重な写真です.これらの写真は市議会開催中の宮古市役所から撮影されたものでした.
 関連記事が下記の『東日本大震災の現状と問題点~備忘録(その1)~』の中にあります.

北海道南西沖地震(1993.7.12.)の津波災害から復興した奥尻島青苗地区を訪ねてきました(撮影:2011年8月5日).

 函館から空路奥尻へ.着陸寸前に見えた青苗半島(写真:左)と青苗港の津波対策用デッキ(写真:右).津波災害から5年で復興した奥尻町から学ぶことは決して少なくないはず!
 関連記事が下記の『東日本大震災の現状と問題点~備忘録(その1)~』の中にあります.

1978年宮城県沖地震の被災地は今回の地震でも類似の被害が発生していました(撮影:2011年5月5日).

 陸前高砂駅前の高層マンション(写真:左)は2棟が衝突し1棟は明らかに傾いていました.非構造壁のせん断亀裂で玄関ドアが開かなくなったのも前回と同じでした.
 卸町団地のRC造商業建築(写真:中)には剛性の低い1階部分に圧壊が生じていて,緑ヶ丘団地(写真:右)では広域に亘って斜面崩壊や地すべりが発生していました.
 関連記事が下記の『東日本大震災の現状と問題点~備忘録(その1)~』の中にあります.

東日本大震災における津波の犠牲者を慰霊する二つの日和山

 石巻市内の日和山では眼下に広がる一面の津波被災地へ向かって僧侶による読経が行われていました(写真:左,2011年5月4日撮影).
 名取市閖上の日和山は7m程度の丘にしか過ぎませんが閖上港付近では唯一の津波の犠牲者を慰霊する聖地となっているようです(写真:右,2011年8月11日撮影).
 関連記事が下記の『東日本大震災の現状と問題点~備忘録(その1)~』の中にあります.

3.11の津波災害で壊滅した気仙沼市内の一部

 避難所になっている気仙沼中学を訪ねた帰路,高台の住宅で老婦人二人が立ち話をしている所に出くわしました(写真:左,2011年5月4日撮影).
 『毎日毎日この光景を見ているのは本当につらい』と話しておられたそうで,道路が通れるようになったのは1ヶ月を過ぎてからとのことでした.
 右の写真はそれから3ヵ月後の同じ場所です.片付けは進んでいますが復興の様子は全く見られません(2011年8月10日撮影).
 関連記事が下記の『東日本大震災の現状と問題点~備忘録(その1)~』の中にあります.

東北地方太平洋沖地震(2011.3.11.)による屋根瓦の被害(撮影:2011年4月9,10日)

 千葉県匝瑳市米倉の木造住家(写真:左)と茨城県桜川市真壁の伝統的建造物(写真:右)の双方に見られる屋根瓦の被害,とりわけ棟瓦が飛ばされる現象は強い短周期地震動によるものと考えられています.
 関連記事が下記の『東日本大震災の現状と問題点~備忘録(その1)~』の中にあります.





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